かたつむりの歩み
朝とか夜とか夕方とか、ちょっと涼しくなったような気がするときもあるんだけど、昼になると、それはきっと幻だったんだろうなと思う。
Amazonで注文した「633爆撃隊」のDVDが届いていて、冒頭の戦闘機の数を確認したいので早く見たいんだけど、封さえ切るヒマがない。
毎日もう何かの病気じゃないかってほど、のどが乾いて、冷蔵庫のありとあらゆる飲料水を飲みまくってたけど、さすがに身体に悪い気がして、そもそも甘すぎたりして渇きもおさまらないので、最近は庭のハーブをちぎって入れた水道水を冷やして飲んでる。ただ、うちは正確に言うと水道水じゃなくて井戸水だからなあ。一度水質検査をしてもらうか煮沸した方がいいのかもしれないが。
ゆうべ、夜遅く外に出たとき、玄関前に落ちていたクマゼミを踏んでしまった。まだ生きていたらしいのに、本当に気の毒で落ちこんだ。クマゼミは大きな頭とすきとおった羽をした、私の大好きなセミなのに、残念でならない。一気に殺してやる元気さえ出なくて、ハーブの根本の土において、水をかけてやるしかなかった。朝見たら、もう死んでアリがたかっていた。どのくらい地上で生きられたのかしら。ここ数日、庭のキナモチの木で恐ろしく元気に鳴いてたやつじゃないだろうな。そうだったら、なお悲しい。
終戦記念日特集で、戦死した人のいろんな資料が発見されたり見直されたり調査されたり発掘されたりしている。それはまったく必要だし、賛成だし、評価もするのだが、でもどういうか、最近、整理かたがた、昔書いた論文や、中途半端に放っておいた資料を見直したりしていると、自分が書いた論文がまったくどこかに埋もれて、そこで調査した結果がまったく見られも知られも生かされもしないまま、新しい論文が書かれたり、数年前に郷土史家の方が翻刻された貴重な資料が、今はその本さえ手に入らず絶版状態だったりするのが、もう何というかすごすぎて、特攻隊の方の手紙も探してほしいが、戦後の平和な時期に築かれた業績や仕事も、掘り出して、消さないでいてくれないかと、しみじみ思ってしまう。
私がちょっと、小指でほじくり返しただけで、これだけどんどん、失われたも同然の状態になっている貴重な研究成果が出て来るのだから、もう世の中全体では、どれだけ重要で大切な研究業績が、どこかに積まれて腐って反故になりつつあるのか、恐ろしくて考えたくもない。情報社会というけれど、インターネットにあふれているのは、どれも同じような記事ばかりだし、流行の注目される分野だけが、そこさえも薄っぺらにいいかげんにとりあげられて、そこにばっかり人が群がって、あえて言うならしょうもないありきたりの意見ばかりを言い合っている。そりゃ電力もエネルギーも枯渇するわ。
言っとくが、私の論文を見ないで新しい論文を書く若い研究者を責めてるんじゃないよ。人の業績をチェックしそこなって同じようなこと書いたのは私にも体験はある。つまり、そういう先行業績をきちんと短時間で見られるシステムがまだまだできていないし、圧倒的に人手も時間も足りないのだ。少なくとも国文学の分野では。
とか言ったけど、もしかして、どこの分野でも同じじゃないよね。
かたつむりの歩みでも、歩み続けるしかないのだろうけど、しかし、あんまり世間や他者からほったらかされると、かたつむりだって、その内ひからびて枯れるだろう。わりと長いこと、片づけや社会的な活動や、いろんなことに時間をとられて、研究や勉強をおろそかにして来たが、久しぶりに手をつけて見たら、私もひどいが学界も世間もひどい。こんな状況になってるなんて、思わなかった。
もちろん、いい仕事をしている人もグループも、今も昔もたくさんいる。しかし、それが社会に還元されないし、つながっていないし、圧倒的にたくさんの人が、そういう成果に触れないで生きていて、触れようとすると決まって何かおかしなかたちになっている。
まったくもう、どこからどう手をつけたらいいものか。呆然としてしまう。