ぐは
小学館から出ている「色の手帖」という本がある。自費出版の本の表紙のデザインを出版社の人や担当者と打ち合わせる時などに、色見本を見ながら相談するのだが、これが案外難しいし、ネットでも紙本でも、なかなかいい見本がなかった。
もう多分十年以上も前に買ったと思うこの本は、たくさんの色がきれいな色彩で網羅されているだけでなく、各色の例として引用されている文例が、古典から現代文からものすごく幅広くて、どういう人が趣味で作ったんだと舌を巻くほど豊富だった。同じ白でも緑でも、十以上もあるような色の数々を漠然とながめながら、それらの文章を読むだけでも楽しかった。
この本を大切にしていたが、少し前に古本や中古本で、この本がいやに大量に安価で売られているのに気がついて、どうしてこんないい本がと憤慨しながら大喜びして、あてもないのに十冊近く買いこんだ。だって一冊1円とか100円とか、正気の沙汰ではない価格になっていたのですよ。高くても500円以下だった。
色の打ち合わせをすることの多いパソコンの担当者にまずは一冊さしあげて、それからも時々いろんな方にプレゼントしていた。これってインテリアとか建築とか衣服とか、さまざまな場所で絶対広く需要があると思うのよ。そんでもって、知らず知らずに教養も深まるし、文章の美しさも身について目が肥えるかもしれないし。いいことずくめの本じゃないか。
さすがにもう残り少なくなった一冊を、数日前に久しぶりに会ったお客さんにあげた。これまでの人たちにもそれぞれ喜んでもらえたが、彼はめちゃくちゃ反応が早く、開けて読むなり「すごい」「この引用は」と、ほぼ私と同じ程度の感心と喜び方をしてくれて、私はすっかりうれしくなった。彼が帰ってからもまだ、その昂揚が治まらず、残り少なくなったから、まだ安かったら何冊か補充しとこうかと思ってネットをチェックして、Amazonのページを開いたら、やられた!(笑)
何とこれ、3000円ちょっとで、最近新刊が出ていたのだ。増補もされて。古本が安くなるはずだ。何だか、少しずつエサで釣られて、どーんと落とし穴に落ちて捕獲されたような気分になって、しばらく笑った。
言っておくが、こうやって、新刊増補されたものが、常に前よりいいかと言うと、必ずしもそうとも言えない。「前の古い方がよかった」という場合もけっこうよくある。とにかく私は前の本が大好きで中身はもちろん、重さも大きさもたたずまい(笑)も気に入っていたから、ぐは!と一瞬のけぞったものの、別に全然失望も不満もなかった。1円や100円の安い古本をまた少し買って、むろん念のために新刊も注文した。こんなだから終活も進まず本も減らないはずである。
政治は国外も国内も大混乱で先が読めない。私はどっちみち共産党一択で、そこに迷いはないし、人に勧めるとしたら、共産党、れいわ、社民党のいずれかに入れてほしいと言うしかないから、そこにも迷いはない。と言うかそれ以外の政党の多くは、政策や方向性以前に普通の手続きやモラルやその他で、もう政党の体をなしていない。選択肢にも加えようがない。特に現政権と、その協力者は。
まあその中で立憲は、もどかしいことは多々あるが、一応政党としての姿勢は保っているし、公明党は常に共産党と票の争奪をしていたこともあって、私の周囲ではよく悪口を聞いたが、そんなとき私はいつも、「強引な票読みや勧誘や、その他のやり方は、基本的にまちがいではない。それを否定したらこちらにとっても命取りになる」と弁護していたぐらいで、先の私の勧める三党がどうしてもいやなら、せめて、両者が合体した中道何とかに入れてほしいと願うばかりだ。
もっとも私は常日頃言ってるように、中道とか中立とか無色とかいう姿勢やことばは大嫌いなんだよね。というか、そんなもの存在しないと思ってる。公明党の代表が「そんなんじゃない」と弁明してるけど、中道だの中立だのってやっぱり、赤と白の間じゃピンク、ピンクと赤の間じゃもっと濃いピンクにしかならないわけで、白と白の間じゃ白でしかないし、何の指標にも頼りにもならないと思うんですよ。無宗教とか無思想とかいうのもそれと同じで、どこにも属さないから自分は公平で偏ってないと思うのは一番とんでもない幻想です。それは無宗教という宗教で、無思想という思想にすぎないんですよ。怠け者と傲慢と臆病とから構成された、ふかふかずるずるすかすかの。
もうこれは完全に私の趣味で八つ当たりだから、笑って読み流してほしいんですが、私の嫌いなCMって、「ハイジ」を使う学習塾やら、ルノアールの絵画を使うパン屋やら、その他いろいろ、もうすべて、理不尽な好みやらで、数え上げれば山ほどあるんですが、最近やたらと流れるCMで、とことん気持ちが悪いのは「ひとりが好き、孤独は嫌い」って、もったいぶった口調の保険会社かどっかのCMで、意味不明のカッコ付けの覚悟なしのへたれのぶざまな中途半端な生きざまだか宣言だかが、ただもうひたすら吐き気がする。誰が作ったの、あんなダサい逃げ口上のおしゃれと自分じゃ思い込んでる自己満足のみっともなさが悪臭を放つCMは。
あくまで個人の見解だから気にしないでほしいんですけどね。でさ、私が「中道」とか何とかいうことばや姿勢に対する印象って、このCMへの違和感や嫌悪感と多分相当似てるんだよね。
それでも、それでも、私は自民党や維新や、それにすきあらばまつわる集団よりは、この中道何とかに勝ってほしいし、ろくでもなさすぎる今の政権(もしかしたらただ一人かもしれないってのが、また恐い)の流れをとりあえず食い止めてほしいと思うのです。もちろん、その要としての共産、社民、れいわは、絶対に確立しておかなくてはいけませんけど。
亡くなった久米宏さんの追悼番組が、その後数日、私が驚いたほどの多さと勢いでテレビを席巻したのですけど、黒柳徹子さんの追悼のことばを読み上げている女性アナウンサーがときどき涙で声をつまらせるなど、司会者やキャスターたちの感情移入の熱さが印象的でした。私の母は久米さんはもちろん好きでしたが、どっちかというと「あのおっちょこちょい」という感じでバカにもしてたし、そんなに完全無欠の偉大な人という印象は私にもありません。でも、その人をこれだけ報道関係者がなつかしみ慕い、追想して嘆く姿に私は逆に、彼らが今、失っているもの、奪われているもの、日常の報道で押し殺すしかないものへの、無念さや苦しみや痛みがほとばしっているのを感じました。
久米さんもですが、その後の番組を引き継いだ古舘さんも、プロレスの中継をしている頃から私の指導学生の一人が熱烈なファンでしたが、その才気と熱気とで、放送人としての矜持と良心を守り抜いたし、それは今でもそうだと思って見ています。
久米さんの死が一時的にでも呼び覚ました、報道のあり方を現場の方々が一瞬でも長く維持して苦しい中でも、できることをやってほしい。それをまた、私たちが支えて行かなければならない。つくづくと今、そう思っています。
写真はなぜかこのごろ、何もしなかったのに、よみがえった庭のライトストーン。どちらも二個の内一個がずっと点灯しなかったのに、陽射しの加減か何なのか、このごろは毎日夕方になると四つそろって、ぴかぴか光っています。君たちいったいどうしたの(笑)。

