これもスーパームーン
帰宅途中の、家に近い、ひと気のない通りで、車をとめて車窓からとった、今夜のお月さま。月の地球をめぐる軌道は楕円形だそうで、一番近づく夜らしい。いわゆるスーパームーン。私のケチなスマホで撮っても、さすがにでかいのがわかる。


ときどき襲われる急激な腹痛がまた起こって、腸閉塞じゃなかろかと心配して病院に行ったら、それは大丈夫だったが、尿管に結石があるとかで、どうなることやら。長期戦になるかもしれない。まあ、気長に治すしかないか。
痛みはめったに訪れず、普段はいたって元気なので、ぼちぼち家と庭を片づけている。今日はたまった新聞をひとかかえ縛り上げてスーパーの古紙回収場に出した。明日は段ボールを片づけるか。涼しくなったから、いくぶん仕事はしやすくなった。しかし、こうなると、さすがに衣替えも急がなくてはならない。ゆううつで、我ながら苦虫をかみつぶしたような顔で、上の家の押し入れに行ったら、去年の冬服や冬の下着が、まだ整理もしないまま、袋に入れて床に放置してあった。
うんざりしながら当面使えそうなものを選び出していたら、まだ使えそうで捨てられず、その一方で新しく買いこんだ、冬のタイツが、数えてもいないが、ひょっとしたら何十本も出てきて、さすがにもう、床に座って、声を上げて笑ってしまって、少し元気になった。
こうなったのも、去年から怒涛の勢いで趣味の小説のシリーズを書きまくって書き上げたせいで、他のことにかまける時間がなかったからだ。だからまあ、さらさら後悔はしていないのだけど、早くとっとと家と庭の片づけを終わって、老後の仕事(何にするかまだ決められない。うう。出来たら専門分野の研究と行きたいのだが)に邁進する態勢を、一日も早く作りたい。
かと言って、それでバテて早めに死んでは元も子もないから、ここが難しいところではある。
とにかく明日は、あのタイツの山を片づけて、くたびれたやつは捨てるか、切って雑巾にでも使うかな。まだ使えそうなものが、どれだけあるんだろう。
国会中継をチラ見していたら、国民民主の玉木さんが、原発の再稼働を熱心に進めたり、聞いてていろいろ頭が痛くなった。高市首相もまた、いくら少数与党だからって、肝心なことはぼかして何も答えないし、無難にまとめようとするから、隔靴掻痒とはこのことかと、ストレスばかりがたまる。
とか思ってたら、海の向こうのアメリカでは、さすがと言おうかイスラム教のニューヨーク市長が本当に誕生してしまった。この先どうなるかは知らないが、さしあたり演説を聞いていると、姿勢が明確すぎて、演説もただ威勢がよくて人をあおるのではなく、その明確な価値観と感受性が、がっしり中心にあって、そこからパワーがほとばしってるのが、ほんとにすごい。うろおぼえだが「ニューヨークは移民が築いた移民の町だ。そして今日からは移民が導く町になる」なんて、トランプ大統領に火をつけて燃やしそうな勢いのことばだ。もう一度聞きたいと思ってニュースを見ても、どのニュースも、ちがう部分を紹介していて、それだけ演説に名文句が多いってことだろう。どのことばも、借り物じゃない。ウケ狙いでもない。信念と確信と展望にしっかり裏打ちされている。
それにしてもトランプさんは、こんな市長、本当にいやだろうなあ。若いし、話はうまいし、下手したらいろいろトランプの「上位互換」じゃないか。
ここまですごい反トランプ氏のコマを勝たせたニューヨークやアメリカの生命力に、あらためてかぶとを脱ぐ。昔「E.T.」の映画を見た時、「強いなあ…アメリカって強いなあ」と映画館の椅子に沈み込んで小声でくり返さずにはいられなかった、あの時の感情が、久しぶりによみがえる。私がそれを書いたのは「夢の子ども」というエッセイの一部だが、その部分だけを引用しておこう。
既に、おわかりになっている方もいよう。あの映画の後半、私が前章で記した「子どもが、成長のために切りすてなければならない何かがある」というテ-マは、強く押しだされてくるかに見える。E・Tが色あせ、死んでゆくとき、共に死のうとした子どもは、国家の管理による強大な機構の中で、命をとりとめ、蘇生する。一見、非人間的で無気味に見えた、その機構の、一員である科学者が、よみがえった子どもに向かってしみじみと、「自分もかつてはE・Tを信じた」と語る場面で、私は、これはこんな映画なのだなと、座席で静かにあきらめた。それにしても、アメリカも疲れているなあとか、ベトナム戦争がそんなにこたえたのだろうかとか、ぼんやり考えていた。
たたきのめされたのは、その直後である。アメリカは健在だったと、あれほどに骨身にしみて思い知らされたことはなかった。「君がいなければ、何も感じられない」という絶望だけを告げて、少年が部屋を出ようとしたとたん、三流ドタバタ喜劇なみの、明るさと騒がしさで、E・Tは一挙によみがえる。そして少年は、間髪入れずに敵と味方を峻別する。例の科学者の目からすばやくE・Tを隠し、即刻、仲間の自転車に乗った子どもたちとともに、自分をとりまく、巨大で美しい、国家の手になる科学的設備と、それを守る人々の包囲網を突破して、E・Tを守って郊外の森へとつっ走るのだ。
見ていて、涙は出なかったし、感動するのさえ忘れた。私は座席に呆然と座って、画面いっぱいに突進しては走り抜け、大人たちの追跡を次々ぶっちぎってゆく少年たちの疾走を見ていた。「・・・強い」「強いなあ・・・アメリカって・・・強いなあ」と、小声で何度もくりかえしながら。