こんなにひかえめに、そしてこんなに明確に
夏目漱石の「坑夫」を、名残惜しくて、まだちびちびと読んでいる。Amazonの読者の批評を見たら、案外好評もあって、びっくりしつつ、うれしい。「現代人にも共通する」みたいな感想もあって、なるほどと思う。若い有能な人が、ひどい職場で精神を病んだみたいな話もときどき聞くのだが、そういう状況にさらされている若者たちには、この小説は案外あちこち、身にしみそうな気もする。
名前もない主人公の青年の、育ちの良さと誇り高さが、滑稽でもありかわいくもあり、心配でもあり、周囲の人たちが思わずそこそこ親切にしてしまう要素があるのも、よくわかる。無邪気で人なつこい無防備な様子が、年長者を魅了するのだろう。こういうのは、今でも通じることかもしれない。
最近「虎に翼」を毎朝見ている。ヒロインの夫が戦病死したということを知る場面で、視聴者がネットのファンサイトで、わがことのように悲しみ、戦争がいやだと切実に痛感しているのを読んで、ああ、本当にそれが戦争だ、と、子どものころ「アンの娘リラ」で、アンの息子たちが出征し、死ぬ場面で、自分の家族のように苦しく胸を痛めたことを久しぶりに思い出していた。(ついでにぶっちゃけると、その思い出を語ったときに、むなかた九条の会の仲間が、おおむね皆「はあ?」と、何のんきなことを言ってるんだという反応だったのが、私がこういう方々とは根本的基本的に自分はちがうんだなあと実感し確信する結果になったことも忘れられない。私にとっては現実の体験以上に切実で鮮烈な読書や空想での体験が、まったく理解できない人たちが、志を同じくする人の中にも圧倒的に多いのだと知ったことは、私を限りなく孤独にしたし、最後まで私は一人で生きるしかないのだな、心の奥底を語り合える相手はいないのだなと覚悟を決めることにもなった。)
その、さりげないし、大げさなところはちっともない回に、胸をかきむしられた次回は、ヒロインの父親の死を、これはまたあっと言いたくなるほどコミカルにほほえましく描いて度肝を抜かれつつ感心もさせられたが、今朝は、最愛の夫の死に涙も流せないまま、心が死んで行くヒロインが、思い出の河原で焼き鳥を食べながら、その包み紙の新聞紙の日本国憲法発布の記事を見つつ、初めて声を放って慟哭する場面があった。
私はこの朝ドラは途中から見始めたので、この場面でちらと見えるだけの憲法の記事の意味がしっかりわからず、直後の解説で華丸大吉の大吉さんが、「あれは、このドラマの最初のシーンにつながる。川辺で焼き鳥食べながら、日本国憲法の新聞記事読んで泣いてる女の子見て、どうして泣いてるんだろうとふしぎに思って見ていた」と解説してくれて、これがやっぱり、ドラマ全体の核さえなす重要な場面だったのだと知った。自分の夢も将来も、最愛の存在も失って歩みだすこともできない人が、未来に希望をつないで立ち上がる、その役割を果たしたのが、日本国憲法だったのだとドラマは伝えている。現実にそうやって多くの人が、絶望と無気力の中から、新しい世界の実現へと目を向けることができたのだ。そのことをあらためて、このドラマは確認している。
こんなにひかえめに、そしてこんなに明確に。
出産場面も戦闘場面も描かない、型通りの描写や展開を徹底して拒む、これは本当におしゃれで高級なテクニックを駆使するドラマだが、それが全力をあげて配慮しながら力いっぱいに伝えて来る、ゆるぎない過去と歴史と、それがつながる現在への確認。
スタッフ一同の、才能と努力と勇気と誠実さに、あらためて深く感謝する。
庭ではいよいよ、ユリが開き始めて、どうなることやら、ほんとに恐い勢いだ。幸い切り花にすると、けっこう長持ちし、つぼみも次々開くのがうれしい。