しのびよる想像力。
◇お手伝いの人に来てもらって、今日は上の家の押し入れを片づけました。ほとんどが雑貨なので、まあまあ処分の方向は見えていますが、一度片づいていた居間も台所もまたとっちらかりました。でもまあ、ぼちぼち整理していたら、ひとりでに片づいて行く状況だな、これは。
そして、押し入れが空になったのがうれしい。何を入れるか思案中♪ とりあえずまっとうに、座布団やふとんかな。
本や資料と思っていたんだけど、それはむしろ処分して行くべきだろう。
◇でもどうしてか、体調がいまいち。疲れが出たのか風邪気味なのか、単なる怠け癖なのか。
昨日の夜の「オールむなかた」の会議では、アベのめちゃくちゃぶりにあきれ返ってる人たちの怒りの受け皿にするためにも、絶対に野党統一候補を作らなくてはという話になって、各政党に申し入れをする、その文章を作ろうということになってるのだが、いまひとつ頭が働かない。言いたいことはたくさんあるが、どういうか、怒りの山の干し草にまだ点火しない。ことばで、皆を燃やさなければ、その前に自分が燃えなければ。
◇「しんぶん赤旗」で笙野頼子の「さあ、文学で戦争を止めよう」が紹介されていた。猫のことを書いた本などで知っていた、凄みのある作家で好きなので、注文しようと思っているのだが、この中に小説家の条件として、「戦争があった時、原発を建てた時、自分が戦地に行かされる、自分が掃除をさせられる、そう思っている人間は小説に向いている。しかし全体を見渡すように語りながら、…自分以外の誰かが代わりに死ぬから戦争してもいい…と思っている人間は書けないのだ。そこに尽きる」との一文があるらしい。
私は何しろ、死刑制度を認めるのなら自分が死刑を執行するのでなくてはいけないと思っていて、だから死刑制度には反対しているぐらいだから、そういう考えは誰でもするものだと思っていたが、多分そうでもないのだな。それも最近少しずつわかってきた(遅いよ)。
◇だが私のこういう当事者気分の想像力は、どっちかというとあまり気分をよくするものではない。特に疲れた時などは、ろくなことを考えない。
片づけが進んで安心して気がゆるんでいるのと、体調がぱっとしないせいで、今日はともすれば、例の猫を何匹も虐殺した犯人のことを考えていた。というよりも、殺された猫たちのことを考えていた。
いったいどんな猫たちが、そんな被害にあったのだろう。苦労しながら生き抜いてきたノラ猫が、その恵まれない生涯の最後にそんな男につかまってしまったのか。彼か彼女かは苦悶のなかで死んで行くとき、せめて何か思い出す楽しいことが、この世にひとつぐらいはあったのか。寒い夜に見上げた月の光、たまたまもらったパンのかけら、そういうものの記憶が頭をよぎったのだろうか。それとも、そんなものも何一つない、苦しいだけの一生だったのだろうか。あるいは飼い猫で、かわいがられていた経験のある猫が、人間を信じてなついていたから、たまたまそんな運命にあうことになったのか。抱かれて眠ったり、なでられたりした人の手や声の記憶を激痛や絶望や恐怖のなかでとぎれとぎれに思い出し、幸せだった家の床や階段や廊下のことを思い浮かべ、そこに帰れたら戻れたらと願いつつ苦しみ抜いて死んだのだろうか。元気いっぱいで恋や冒険に夢中だった若い猫だったのだろうか。子育てに忙しかった母猫だったのだろうか。
どう考えても、どう思っても、ただ心がずたずたになる。
◇最近の世の中では、日本人であることを誇りにし、その一員でないものを排斥したがる雰囲気があるようだが、私が愛国心だの日本人だのという発想が何よりいやなのは、私が大嫌いだったり虫が好かなかったりする人たちと、同じ民族で国籍だからとひとまとめにされることだ。ただもう、汗臭いし気持ち悪い。
特に、こんな事件の話を聞くと、この犯人のような人間と、同じ国民とか民族とか種族とかでまとめられるぐらいなら、いっそもう、この男にバーナーで焼かれた猫の一匹になってしまいたい。それほどの嫌悪感と拒否感を持つ。
2ちゃんねるなどで見ていると、今ではそういうときはただちに、この犯人の男は日本人ではない他民族の人だと決めつけて安心することになっているようだが、それで気のすむ脳天気さを私はいっそ心の底からうらやましいと思う。その男はきっと立派な日本人だ。私と同じ人類だ。その事実から私は決して逃れられない。