すったもんだの、その後で。
◇屋根の上に積った雪が、凍ってシャーベット状になっていたのが、どさどさ落ちていたのですが、それも一段落した模様。寒さもちょっと、やわらいだのかな。
今朝は、「女子力をつけました」と言って男性が持って来てくれたマフィンで朝食を食べ、別の人がプレゼントしてくれた赤い布の花のコサージュを黒のセーターにつけて行って、学生からおしゃれですねとほめられた。なかなか、ぜいたくな暮らしぶりである。
◇私はこうしてブログを書き、人前でしゃべって講義もしてるわけだが、ときどきものすごく不安になるのは、ごく少数の人であれ、どう気をつけて発信していても、絶対こっちが言っていない、あらぬことを受信している人がいるのは避けられないだろうってことだ。
誤解や曲解とかいう上品なレベルの話ではないのよ。以前、同僚の先生が「僕が授業で『これこれの考え方はまちがいです』と時間をかけて説明したことを、そのまま書いて『これこれということがわかって、よかったです』という感想が出るから、がっくり来るし、不思議でしょうがない。もしかしたら、寝ていて一部しか聞かなかったのかもしれないが、それだったらもうずっと寝ていて何も聞かないでいてくれた方がありがたいんだよね」と、ぼやいていたが、それに近いことがよく起こる。
直近の例では、文学史の授業で「平家物語」の話をして、「その内に源氏物語の話もします」と言ったとたんに、授業の最後の感想で何人かが「来週は源氏物語ですね!楽しみです」と書いてくる。まあこの程度はしかたがないか。
更に今日は、「平家物語」の四国にある蝋人形館の写真を回して見せてやった。そうしたらさっそく、「文楽の人形の写真は、今日の方のがリアルでした」と書いて来た学生がいる。先週、文楽の人形の写真を回して説明はしたが、蝋人形館の話もけっこうしつこくしゃべったし、これを文楽の人形とまちがえることになる思考回路が、どう考えてもたどれない。
私もなまじ教師なので、まちがった理由がわかれば、それなりに今後に生かしもするのだが、もう、まちがえ方が予想を凌駕すると言おうか、斜め上にぶっとんだ反応なので、いつも不意をつかれて呆然とする他ない。
まあそういう学生は少数だが、少数であってもいる以上は、私がいかに注意深く説明してもことばを選んでも、こういう、予想もし得ないとりちがえは、不可抗力で起こるだろうということだ。その事実を真剣に認識すると、恐くて何もしゃべれなくなるし書けなくなるから、放っているが。
そう言えば、昔、新聞のコラムを書いていたとき、スペインの闘牛にふれて、「友人の一人は旅行したとき、ツアーの予定だった闘牛を見なかったそうだ」と、ただそれだけを枕に書いた。
そうしたら投書が来て、「お友だちは見なかったそうだが、あなたはごらんになったそうで、私は闘牛というのは認められない」と、丁寧に縷々、自分の主張を述べている。わざわざ言うのもアホらしいが、もちろん私はスペインになど行きもしてない。闘牛に賛成でもない。どこをどうして、そういう風に読める材料があるのか、まったくわからないが、書いてる人が真剣で良心的なことだけはわかる。
誤解を解こうと思っても、こういう人に限って匿名だ。
恐いよなあ。読み間違えて、思いこんで、しかも自分の述べたことを訂正される余地は残さない。
だからきっと、今私は忙しくて返事する時間がないから、コメント欄はとじているが、もし書きこめるようだったら、きっと誰か「動物の首にコサージュをつけるのは、いかがなものか」とか、「マフィンを学生に買ってこさせるのはセクハラだ」とかいうコメントを、平気でして来るんじゃないかと思う。
まあ、しょうがないのかなあ。多分、大多数の人はちゃんとわかってくれるのだろうから。
◇センター試験も終わったけど、今年は新聞やテレビが、毎年バカみたいに、やいのやいのと、入試作業のミスを書きたててたのが、今年は嘘のようになかった。
この夏からの国会前の反対運動の中で、大学人が積極的に民主主義を訴えていたことなどで、大学への理解が少しは生まれたのならいいが、超悲観主義的に考えると、もう大学は学長権限で独裁政治ができる、政府の御用機関になり下がったから、マスメディアを利用して、「大学教員はずぼらで無能でバカ」というキャンペーンをする必要もなくなったからかもしれない。
久々に「シールズ」のツイッターをのぞいたら、全国で若者や母親や学者文化人などが、うまずたゆまず活動を続けているのがよくわかって、本当にはげまされた。
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それにつけても、私は先日のバス事故で亡くなった若者たちが、たとえば在特会で毎週ヘイトデモに出ていたとしても、それでも死なせたくはなかったし、あんな事故に遭ってほしくはなかったが、ましてや、あの被害者の中には、もしかしたら国会前で抗議してた若者もいたのかもしれないと思うと、つくづくもう気がめいる。
◇「水の王子」の小説をぼちぼち書いているが、これは古事記をもとにして、嘘八百のファンタジーにしてる話で、筋はあちこち、もとの話と一致する。で、今ちょっと足踏みしてるのは、ニニギのイメージがつかめないこと。立場的には人気が出そうにない人物だからな。
シェイクスピアの悲劇なんかじゃ、登場人物たちが、ほぼ皆死んで、混沌が一応静まって大団円になったとき、その後の世界の秩序をとり戻すためのように、最後にあらわれる人がよくいる。「ハムレット」のフォーティンブラスとか、「リア王」の姉さんたちのどっちかのご主人とか(オールバニ公だっけ、ちがったっけ)。
ニニギって多分そういう役回りだよね。すったもんだが極限まで行って、ひとまず終わったその後で訪れる人。戦後処理がちゃんとできて、それまでの皆の愛憎のうずなんかとは無関係な人。あ、「ジュリアス・シーザー」のオクタヴィアヌスもそうだっけ。
こういう人は、シェイクスピアもそうだけど、いなくちゃいけないし、いてほしいと作者は思ってるだろう。だから、ある種の演出や、ケネス・ブラナーの「ハムレット」みたいに、残酷だったり暗かったり悪者っぽかったりするのは多分まちがった描写だと思う。ああいう存在は、味気なくてもがさつでも、やはり「希望」で「期待」なのだ。未来への。