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そう言えば。

◇カツジ猫が私の肩こりのことを書いていましたが、考えて見れば、猫には肩はないんだよなあ。
昔、「猫には肩らしい肩がない」というタイトルのエッセイ集を書こうかと思っていたことがあったっけ(笑)。

SF小説「夏への扉」の文庫本の表紙は、もうずっと変わらない、猫の後ろ姿です。人気あるんでしょうね。猫の後ろ頭って何だかとても気持ちをそそられますもんね。
私のそのエッセイは、多分こよなく愛した飼い猫の故キャラメルについてだったと思うんですが、要するに彼が窓辺で外なんか見てたたずんでいると、思わず近づいて行って、後ろから肩を抱き寄せてやりたくなるのですが、さてそこで、はたと困ってしまうのは「猫には肩らしい肩がない」ということで、こちらの手をのせる場所が彼らの身体には存在しない、という悩みを書いたものでした。しょうがないから、それらしい場所に手をあてて見ても、何だかただ身体をはさんでいるか、首をしめているかって感じにしかならず、猫も「ん?」という顔で振り向くから、ますますこっちは身のおき場も手のおき場もなくなる、みたいな(笑)。

しかし最近のいろんな記事を読んでると、猫にもちゃんと肩こりはあるらしいのですが、いったいそれは、どこがこっているというのでしょうか。
「怒らす肩」も「落とす肩」も「そびやかす肩」も「風切る肩」もないというのは、たしかに猫の生き方の軽やかさやおしゃれさや賢さをよく示しているようで、それはそれでいいものですが、さしあたりカツジ猫が私の肩こりに同情的じゃないのも、まあしょうがないのかもしれません。

◇伽羅館(古い方の家)はだいたい片づいてきているのですが、何しろ大工さんたちが工事ができるようにと、とりあえずあっちこっちにいろんなものを押しこめただけなので、工事期間も含めてあと二週間ばかり、どうかその中から探し物をしなくてもすむように、神や仏に祈るほかありません。
と言っているそばから、今度の文学講座に使う予定の本が一冊どうしても見つからない。かわりに使おうと思った本も見つからないから、まとめてどっかにあるんだなきっと。どうしよう、と思いながら、カオスな書庫の中をながめています。

ゆうべは、古いものの入った箱をひっくり返して、少しでも処分して減らせるものがないかと調べていたら、大昔に買って、よくはめていましたが、もうあることも忘れていた、骸骨というか、ドクロのついた指輪が出てきました。
あのころは、こんなデザインも珍しく、かなりなインパクトだったのですが、今見ると思っていたより小さくてかわいらしく、なつかしさもあって、ゆうべはずっとはめていました。
そして、今朝またはめようとして、あらためて見たら、こいつ、あごがカクカク動いて口が開いたり閉じたりするのですよね。
何かそういう記憶もあったのですが、ゆうべは動かなかったので、そんなもんかと思っていました。つけてるうちにドクロも眠りからさめたものと見えます。

◇美尾庵(新しい下の家)のキッチンは来客コーナーにもなっていて、玄関から入った時に神棚しか見えないのも淋しいから、何か絵でもかけようかと思いはじめていました。
こちらの家には抽象画しかかけてないのですが、ふと、ずっと伽羅館のすみっこにかけていた、きれいなヒヤシンスの花の絵ならいいのではと思い、さっきかけたら、ばっちりでした。
これはこの近くの女性の方が描いた、一見甘い優しい絵で、色も淡く描線も細いのに、何だかものすごい強靭さとインパクトがあって、他の家具や絵とどうも折り合わないので、困っていたのですが、それがこのキッチンには存在感の強さも含めて、大変似合います。どういうか、オーラが玄関まで放射されているようです(笑)。
これだけで、満足して今日の仕事は終わった気でいる私だから、そりゃあ仕事も進みませんよね。

◇それに、夏と冬の服の入れ替えもほぼすんだのですが、この季節は、いわゆる合い物とでもいうのか、どっちつかずのあいまいな服がいろいろあって、短い季節の着こなし(おしゃれに着るという意味ではなく、文字通り着てこなして活用しつくすという意味)に苦労します。
言ってみれば短いシーズンの舞台に立つ俳優が山ほどいて、ひしめいていて、使い道をまちがえて季節がちょっとうつろってしまったら、もう来年まで出番がなくなる、かわいそうな服がやたらと多いという感じ。
迷っている間に結局一番しょうもない、好きでもない、安物の、適当な服ばっかり毎日着て過ごしてしまって、服もですが老い先短いこの私の貴重な夏から秋への一時期を、あたら無駄にろくでもない服を着て暮らしてしまったということになる。
何だかんだで気ぜわしい毎日です。あー、部屋がせっかく居心地よくなってきているのだから、本来の仕事もじゃんじゃん片づけたいというのに。

◇川内原発の再稼働を地元の一部と国とは前のめりに急いでいるようですが、ゆっくり考えているとヤバいから急いでやってしまおうというのは、何においてもろくな結果にはなりませんが、この問題は、そのろくなことにならない結果の規模があまりに大きすぎるってこと、わからないんですかねえ。
わずか10数名の議員(じゃなかったっけ)でこんな重要なことが決められてしまうのを見ていると、まさにもう原発というのは、あらゆる面で地方を無視して軽視して来た結果だなあと身に染みて思いますね。いやまあ、言ってることが早口すぎて意味わからんでしょうから、その内ゆっくり説明しますけど。

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カツジ猫