ちょっとは仕事もしなくちゃなあ。
◇家の片づけばっかりに燃えているのも飽きたので、カルチャーセンターなどで使った、江戸紀行に関するメモをアップしておきます。「近世紀行紹介」のコーナーです。まあねえ、本棚の整理をするにつけても、いったい私はこの膨大なコピー資料の山を、生きてる間にどれだけ読んで紹介できるんだろうって、いっそもう脱力して笑ってしまうんだよね。人魚の肉でも食って不死になるんでもなかったらとにかく。
◇神棚に引続き、今度は田舎の家から持って来た、叔母の小さな仏壇で悩んでいます。この前、ペットの写真を仏壇においてもいいもんだろうかとネットで検索してみたら、そもそも仏壇は写真を置くところじゃなく、仏様を置いて拝む所だとあって、そう言えばそうかと思ってこの前神棚の用具を買うのに行った仏具店で、小さな仏像を見たらどれもこれも何万円もして、とても買えないとあきらめて帰って来たのですが、よく見たら叔母の持っていた仏壇にはちゃんと仏像も不動明王も弘法大師もいらっしゃいました。
しかし問題は叔母と叔父は真言宗らしいのですが、祖父母は浄土真宗で、私はその位牌をいっしょくたに拝んでいたのですね。まあ、叔母たちの位牌は別にあって、彼らのお寺で永代供養してあるからいいようなもんですが。
知らない内はともかく、知った後では何となくこの仏壇に祖父母の位牌を置くのもどうかと思って、田舎のお寺で永代供養してもらうようにしようかとか迷っていて、しかしまあ何でこの無神論者の唯物論者の、あえて言うならキリスト教に親しんでいる私が、神棚と仏壇の扱いにこんなにあれこれ悩むのだ。まったくどうかと思ってしまう。
ロバート・シェクリイのSFで、いろんな神さまとつきあって大変なことになる短編が何かあったけど、下手すりゃ私もそういうことになりそうだぞ。
結局、でもこの小さい黒檀の仏壇は叔母が叔父の死後に買って、自宅で拝んでいたもので(何百万円かすると叔母か誰かから聞いて私はびびっていたのだが、今回仏壇の中から出て来た領収書では90万円となっていて、なあんだと肩の力が抜けた。まあその値段でも恐いけどさ)、私は仏像も仏壇も、例の北海道のクマと同じに昔からの同居人、古い知り合いのような感覚なんだよなあ。つくづく見ると、仏壇ってきれいだし、かわいいし。仏像も大日如来らしいんだけど、叔母が拝んでたと思うと(叔母だってキリスト教系の人だったから、どういう風に拝んでたかは何だか怪しいけど)なつかしいし、こじんまりしてかわいいし。
で、例の巨大なデスクを人にもらっていただいた後に使ってる、小さい仕事机のわきに仏壇をおいて、適当に供えたお菓子を、ときどき手を伸ばして「いただきますよ」などと言って食べている。もういろいろと全面的にまちがってると思うけど、これが私の信仰だ。
◇そういう話を連想するのも、いろいろ罰が当たりそうだが、たとえば東海道の笠寺観音だったっけ、一休和尚が小便をかけて去った仏像を、寺の人たちが別の僧を呼んでちゃんと供養したら、仏像が怒って「尊い僧に小便をかけてもらったのに、くだらん儀式で汚された」と抗議したとか、何かで読んだ猫の話で、超純血種の迷い猫が
猫の飼い方も知らないアンティーク店の若い女性経営者に飼われて、ポテトチップをもらってそれが好物になって幸せに生きてるとか、そんなのばっかりを思い出してしまうんだよなあ。本来のかたちとはちがっても、許される関係ってあるんじゃないだろうか、みたいな。
◇まあともかく、明日から数日ちょっと時間に余裕があるので、運びこんだ荷物の整理に、せいぜいはげもうと思います。カメラがどっかに行ってしまって、カツジ猫の写真が撮れなかったのですが、それも昨夜めでたく見つかったし、そのうちまた、彼もお目見えすることでしょう。