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つくしが出ていた

めちゃ暖かい。というか、むしろ暑い。昨日、上の家の玄関の横に、つくしが生えているのを見つけた。うれしくてiPhoneで撮ったけど、どうしても先っぽがぼけやがる。何度もやっている内に、何だかつくしが成長してしまったみたい。

一昨日の朝、目が覚めたあと、ベッドでごろごろしながら、大門剛明「完全無罪」の文庫本を一気読み。最近、女性の若手作家が誰も彼もいやになるほどうまいので、どれを読んでもたいがい気分がいいし外れがなくて、うれしいけどちょっと無気味だなと思っていたが、男性作家も同じのようで、本当に快適だし退屈しないしサービスいいし、何から何まで面白すぎて舌を巻く。

昔、子どものころや青春時代、日本の作家のどの小説を読んでも、ほとんどどこか不快で退屈で落ちこんで後味がよくなくて、まあそれが快感になるのが読書って感じだったのに、これはまあどうしたことだ。女性蔑視や差別意識が消えたというのはまあわかる。でも、それだけなんだろうか。私の好みが世間に合って来ただけなら、今のこの瞬間も昔の私のように、何を読んでも心が汚され、トゲが刺さってイライラしている人たちというのも、どこかにいるんじゃないのかと、変なことが気になってくる。そんなに自分の気分のよいものだけが世間にあるということ自体、何か絶対おかしいよね。

「アナと雪の女王」なんかでもそうだったが、たまに気に入らないものを見つけると私が大喜びで飛びついて、がつがつ骨までしゃぶって攻撃するのも、そんな不安に関係があるのかも。

今朝は南木佳士「トラや」の単行本を、これまた一気読み。ちょっと暗くて重苦しい文体が、おー、これぞ文学やんとなつかしい快感にひたる。そうは言っても、うつ病にかかった恐い話をつづっていても、それが今の時代なのか、ものやわらかで優しい。あきらめや悲しみでひとりでに心が洗われるし、何より文体が整って目に優しい(笑)。紹介を見たら芥川賞とった人だった。「ダイヤモンド・ダスト」読んでみようかな。

先日田舎に帰ったとき、捨てられなかった本の中から、「SF作家オモロ大放談」と「シャア猫のこと」を持ってきた。どちらも、どうってことはないけど、いろいろと大好きな部分があって、私がこよなく愛した本だ。片づけて捨てた人(私はそれを頼んではいない)は「ずっと読んでおられないだろうし、もうお読みにならないでしょう」と判断して私の本の大半を捨てたようだが、何でもない本の何でもない一行が夜中に急に読みたくなって眠れなくなる、そして、それを探して書庫に入って見つけて読み返す至福というのを、ご存じなかったのかなあ。それができる環境にあることが、私の人生での、ほとんど唯一の贅沢で幸福だと、ずっと思って来たのだったが。

それに「読んでおられない」とどこで判断されたのかなあ。これは本好きな人でもいろいろだろうが、私は基本、絶対に貴重書でも週刊誌でも「読んだ痕跡」は残さない。書き込みや線引きはもちろん、ページを折ったりカバーを取ったり、自分の触れた跡をつけないように心がける。愛している本ほどそうだった。
もしかしたら、そうやって大切にそっと扱っていたのが仇になって、そういう本から処分されてしまったのだろうかと思うと、それもまた残念ではある。とても皮肉なことだとも思う。

それで、二冊を読みなおしたら、「シャア猫」はあいかわらず愛らしかったが、「SF作家オモロ大放談」はものすごく過激な発言のオンパレードで、これは今では発売できないんじゃないかと思ったぐらいすごかった。参加者の中では若手の筒井康隆氏が最近韓国の慰安婦像についてジョークを飛ばして批判されたけど、この対談の水準で行くと、あのくらいの荒々しさはどうってことないレベルになるのがわかる。今はそれが通用しなくなっているとしても。
そして私自身も当時こうした荒っぽさに心が解放され救われていたのも、どことなくわかる。そのころと同じように、私は笑った。そして今落ちこんでいる悲しみや無気力から、昔と同じようにかなり救われた。

宗像にもコロナの感染者が出たようだ。おかげで昨日の夕方ジムに行ったら、かなり空いていて、しめしめと喜んでいたのだが、その後で写真の現像に立ち寄ったカメラ店で、その話をしたら、「あらー、ジムやってましたか。スポーツ関係は自粛するようにと言われてたみたいだったけど」だって。どこの指示なのかは知らんけど。この分じゃもしかしたら、その内にジムもお休みになるかもしれんなあ。

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カツジ猫