つっぱりばあさん
みな人にそむきてひとりわれゆかんわが悲しみは人に許さじ
何かで見つけた若山牧水のこの歌が、高校時代からずっともう大好きで、大きな悲しみを味わうたびに、抱きしめるように思い出していました。
さすがに、この年になると、もうそれほどの覇気はなくて(笑)、いろんな方と悲しみを共有するのもまたよかろうという気分までにはおとなしくなりました。
そうは言っても、飼い猫がいきなりと言っていいぐらい突然体調を崩して亡くなって、悲しみも淋しさももちろんあるのですけれど、ご近所の方が「ペットロスで何日も泣き明かす人もいるのに大丈夫ですか」と心配してくださるようなことはありません。
その方にも申し上げたのですが、この年になって体調もいまいちだと、飼い猫より先にこっちがくたばりゃしないかと実は相当気が気じゃなくて。人間以上に動物はいろんな保障なんてないし、ひきついで飼ってくださる人にも気の毒だし。何より残されて悲しんだり苦しんだりするのが、どっちかなら、それは自分が引き受けた方がずっと気が楽です。
もうひとつは私はこの猫を相当なめていましたから、きっとその内迷子になって首輪の迷子札もなくしてしまって、雪の中や熱波の中をさまよい歩きながら、私の家を思い出して、どうやったら帰れるんだろうと思い続けて死ぬかも知れないと想像しただけで、情けなくて死にそうになるのが癖でした。何しろ私はこの猫をとにかくヘタレのビビリと決めつけていたので、そういう間抜けなことをきっとするような気がしていたのです。
実際にそうやって行方不明になる猫は多いし、私の飼い猫の中でも数匹そうなったのがいて、毎回探して回りながら、とてもつらかった。特に、今度見送った猫は、どことなくそういう間抜けで哀れな最期を遂げそうで、思っただけで悲しくてたまらなかった私も相当バカですわ。
それがもう、わが家を夢見て帰り道を探してさまようのではなく、いつものような暮らしの中で、私の前で死んでくれた。正直言って彼自身がそのことをどれだけうれしくありがたく思っているかは怪しいし、どうもそうでもないのじゃないかという気もするのですけれど(笑)、それでも私は感謝しています。
そして、自分自身について言えば、一番ほっとしているのは、「ああ、もうこれでいつでも死ねる」という思いです。「病気になってもどれだけでも入院できる」とか「泊りがけで旅行にも行ける」とか「白身魚だけじゃなく好きなお刺身を食べられる」とか「外出時にエアコンをつけっぱなしにしなくていい」とか「仕事に熱中してるとき、にゃあにゃあ呼ばれて相手しに行かなくてもいい」とか「いつでも気兼ねせず掃除機をかけられる」とか、だんだん考えがよこしまになって行くので、このへんにしますが、まあそういうのも本心ではあります。
そう言いながらもやっぱり淋しい。今朝最後のすべすべふわふわの毛皮をなでてやって、かわいがって下さっていた方といっしょに、庭に埋めました。いつもガラス戸から見える場所で、テレビの音も聞こえます。彼も文句はないでしょう。
回りは木々が茂りすぎて荒れ果てていますが、まあおいおいと、きれいにします。お楽しみに。
手前は彼がずっとトイレにしていた砂場です。今は室内でトイレシートを使っていたので、長いことここは使っていません。その内に花でも植えてやります。

何しろ皆さん、長いこと彼のおしゃべりにおつきあいいただき、本当にありがとうございました。しばらくちょこちょこ思い出話をすることもあるかと思いますが、笑ってお見逃し下さいますよう。