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なんか泣けてくるわよ

雨が降るのは、水まきをしなくていいから、そんなにいやじゃないんだけど、高価な猫忌避剤をまいておいたのが、流れて無駄になってしまうのは、泣けてくるわよ。

猫忌避剤もいろいろなのだが、効果のあるものはやっぱり高い。一本千円近いのを涙をのんで買っているのだが、一週間ともたない。中途半端にけちってまくと効果がないので、結局は損になる。

以前はそうでもなかったが、最近私は経済的に苦しいので、これを買うたびに、「ああ、猫が来なければ、野良猫がいなければ、エサをやる人が近くにいなければ、これを買わずにすむのだが」と、つい考えてしまう。そして、「このお金があれば、ケーキも買ってお茶ができるのに、花の苗なら高いのでも三本は買えるのに。仕事の資料で必要な本も一冊買えるのに。病院に行くのにタクシーが使えるのに。一度ぐらいは外でランチも食べられるのに」などなどなど、あきらめなければならないものの数々を思い浮かべて、涙しそうになってくる。こうやって毎回、小さいながら強烈な恨みや嘆きが、野良猫とエサをやる人に対してふりつもって行くのを、エサをやる人たちは、どの程度予想できておられるのかなあ。ご自分たちがエサを与えるその先に数しれず広がる、そのような風景を心情のひとつひとつを、気づいてやっておられるのだろうか。

まだしも、エサをやって猫たちを救っているのなら、私の心も安らかだし、いろんなことも我慢できるだろうと思う。彼らを庭から排除する、自分でもいやな行為にお金を使わざるを得ないという、この不毛さが、ますます気持ちを暗くする。

だったら、猫の排除はやめて受け入れなさいと言われるだろうが、毎日毎晩、庭のあちこちに糞をされ、花壇を荒らされ、ものを壊され、そのたびに片づけ掃除し、疲れていやな気持ちになるのと、どっちがいいかというと、もう選択の余地がない。

昔は私の家でも猫たちは皆放し飼いだった。近所の農家や住宅にも、きっとご迷惑をかけていた。だが、この今の家もそうだが、少し以前までは近くに森も草地もあって、野良猫のトイレの場所も、ひょっとしたらエサを自分で狩って自活できる場所もあった。うちの猫もネズミやヘビや、ウサギらしきものまで、よく取って来て食べていた。そうやって暮らしていた猫たちは、それなりに人間と共存していたと思う。

今は私の近所でも山や森が開発されて、びっしりと住宅地になった。この状態で、昔と同様の感覚で、野良猫を自由に暮らさせようと思ったら、もう必然的に他人の住宅や庭を汚すことにしかならない。それも一定の数を超えてしまうと、近隣の住宅では毎日の被害が出ることが避けられない。昔と同じ感覚で、野良猫の受容を被害者に要求するのは、どう考えても無理がある。

保健所での殺処分は私も反対だ。だが行政がまったく関与しないとなれば、住民が何とかする他ない。無料で避妊をしてくれる愛護団体にしても、当然だが、地元の手術会場設定その他、さまざまな作業は地域住民がやるしかない。

どこもそうかもしれないが、現在私の住む自治体では高齢化が進んでいて、独居老人も多い。回覧板を回したり燃えるゴミの袋を出したりするのでも、よろよろよちよち、やっとのことで歩いて行く人の方が多い。そういう人たちに、そのような活動を要求すること自体、あまりにも非現実的だ。

せめて地域や家族に迷惑をかけまい、せめて自分の心と身体を活性化して元気でいようと、そういう高齢者たちは、必死で家や庭をきれいにして、自分たちの食べる野菜を育てたり、花を植えたりして、心と身体を支えている。
その庭や畑を野良猫が毎日直撃して、花や野菜をだめにする。かけた時間も愛情も費用も一気に無駄になってしまう。そもそも、よろよろとしか動けない病弱な高齢者にとって、猫の糞を掘り出し、土を掘って埋める、あるいはコンクリートの上を色や匂いが消えるまでホースとブラシで洗い流す、それも真夏や極寒のなかで、という作業が、どれほど負担で苦痛になるか、わかっていただけるだろうか?精神的にも、朝の庭に出て、花や野菜が荒らされて悪臭がただよっているのを目にしただけで、家に引き返して寝込んで、うつ状態になられる人だっているのだ。
ネットで見ると、高価な車を汚されたり傷つけられたりしている大きな被害もそこそこ多いが、そういう深刻さはもちろんとして、案外こういう、とても小さな被害こそが、決定的に弱者の心を折ることだってある。

わずかな食卓の材料となる野菜、亡くなった家族や遠方の家族や大切な人からもらったかけがえのない花や木の、枯れかけたのを一生懸命世話して復活させ、長年育てたものも、野良猫たちは情け容赦なく汚して壊して破壊する。思い出や生き甲斐までが踏みにじられて消える。そんな例をいくつも見てきた。
野良猫に罪はないだろう。生きる権利はあるだろう。だが、植物や高齢者には、それでは何の罪があるのか。生きる権利はないというのか。そんな話を見聞きするたび、いつも思った。近所づきあいをそこないたくないし、エサを与える人たちの気持ちも尊重したいから、こういう思いや実態を口にする人はほとんどいない。私もずっと言わずにきた。だからこそ、このような実態は、特にエサを与える人の多くには、多分あまり知られていない。

私の知る範囲でも、家ごとに猫の忌避剤、防御ネット、センサー、音響装置など、高価なものから手に入るものまで、あらゆるものを購入しておられる。かかった費用を合わせれば、途方もない額になるのではないだろうか。そうしてまでも拒否したいのは、それだけ被害が大きいからだ。金銭的にも精神的にも。

「そんなに苦になるのなら、あなたが皆をまとめて行動を起こせ」などと言ってみても、これだけ疲れて弱っている高齢者や住民に、「はっ!なるほど、私がまず動かなければ」とめざめて何かを始める人は、おそらくめったにいないだろう。
「それならまず、おまえが何かしろ」と相手を追い詰めて自己批判させる攻撃法が流行の先端だった団塊世代の70年代ならいざ知らず、今そんな要求をしても、敵意とトラウマしか生まれない可能性が高く、効率的な説得とはとても言えない。(たしか自分が首長のくせして陳情に来た若い人に「あんたが政治に不満なら、自分が政治家になって世の中を変えろ」とか言った大勘違いなやつもいたっけな、そう言えば、どっかに。この言い方は、相手をとりあえず黙らせるには一定の効果があるかもしれない。「そうか、私が何かしないと何も言ってはいけないのか」と思って不満や怒りを飲み込んで沈黙する人は多いだろうから。でも、その分、怒りは内包するし、最悪、猫の虐待とか、そういう方向にも走る可能性がある。「黙らせて、邪魔をさせまい」という戦略だったら、それは危険すぎる方法だ。守ろうとするものたちを本当に大切に思っているのなら、避けた方がいい口撃である。)

私はとにかく、エサをやる人とは対立しまい、話し合おうと思って来た。一時期は、どうせきれいにして、草をとっても、たちまちその場所に糞をされるからと庭の草取りもすべて放棄し、荒れっぱなしにしたこともあった。しかし、自分にできることはと考えて、荒らされても汚されても壊されても、とにかく自分の庭だけはきれいにすることを決意して、土のある場所にはすべてレンガをしきつめて、あらゆる工夫を行った。多分数十万はかけたのではないか。老後の資金がピンチになっているのもそれがひとつの原因だが、どこに費用を要求できるものでもない。

さまざまな悩みや迷いは常にある。私は野良猫にエサをやる人のかなりは、本当に彼らの幸福や将来を考えてはいない、むしろ敵を増やして猫に危険な環境を作る、思慮に欠ける行動だと考えている。(学生の味方だ、民衆の味方だ、と言いながら、自分の理解ある指導者ぶりに勝手に酔いまくって、逆にそれへの反感から学生や民衆に残酷な指導者を周囲に生み出してしまうのと同じに。)
だが、実際には、「とことん面倒が見られないから、無責任なことはしたくない」とあえて手を出さず放置する人たちよりも、たとえ考えなしの行き当たりばったりの自己満足でさしあたりのエサをその場で与える人たちの方が、とりあえず猫を生き延びさせるだろうし、その過程で残酷な猫の犠牲者が少々出たとしても、それでも生き延びる猫もいるのなら、そっちが望ましいのかもしれない。そういう鈍感さが必要なときもあるのではないかとも思う。

ガーデニング命の人が多そうな英国で、ワイルドの有名な童話「自分勝手なジャイアント」などが生まれているように、植物や孤独な快適な暮らしより、そこに侵入してくる命あるものを愛して、関わることが大切だという価値観も重要なのだろうとも感じる。

当面、私は個人でも地域での協力でも、できる限りは野良猫の避妊を進めようという方向で解決しようと考えている。自分の体力と経済力が許す範囲を細心の注意を払って見極めながら。

エサを与える人や、被害を受ける人、家で多頭飼いをする人、地域猫の活動を進めようとする人、その誰もが孤立したり対立したり分断されたりしてはならないと思う。この問題によって、地域が不快な対立を生むことも、何としても避けたい。

そして、私個人のことを考えても最大のネックは、避妊の費用だ。これだけでも、何とか自治体や行政が援助してくれないだろうか。これは大きな要求課題にするべきで、だが、それを成功させるためにも、被害を受けている人たちの理解と協力を得ることは絶対に必要だ。

しかしついでに、「野良猫も人間と同じ地球の一員です」といったたぐいの発言を見ると、ついつい、それならノミも蚊もゴキブリもオミクロン株も同じ生命で地球の生命体だがほっといていいのか、と思ったりもする。
とりわけ私はもう何十年も前から、動けないままはりついて死にいたらしめるゴキブリホイホイほど残酷な殺し方はないと、ずっと思っているのだが、これだけ野良猫の権利を思うのなら、ゴキブリのあの死に方についても、何とかしてやろうと思う人はいないのだろうか。

最後はかけ足になりましたけれど、そんなことをあれこれ考えているから、私もいろいろ忙しい。

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カツジ猫