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ひろゆき氏と沖縄(2)

もう何年前のことだったろう。酷暑か極寒かとにかくいい気候の日ではなかった。戦争反対か憲法守れか、そういった大きなスローガンを掲げての集会が、福岡の中心の天神に近い公園で催された。むなかた九条の会の世話人代表であった私は、そういう集会にはなるべく参加していたが、その日は何か用があって行けなかった。だが、最後の方には参加できるかもしれないし、その後のデモ行進には加われるかもしれないと思って、用がすんだあと、そっちの方向に車を走らせた。

そうしたらやっぱり間に合わなくて、デモ行進も終わって解散したようで、その帰りらしい人たちの集団に、那珂川の下流の海に近い橋のたもとで遭遇した。多分博物館かどこかの広い駐車場に、車やバスを停めて参加していた人たちの帰り道だったと思う。

中心街からは少し外れていたけれど、休日の華やかな雰囲気がただよう街角で、その一群は異様に見えた。集会に使った旗や横断幕を巻いて持ち、プラカードをかついだりぶら下げたりして、誰もがそれはもう疲れ切って、歩くのもやっとという感じでよろよろ歩いていた。回りに助けられて抱えられるようにして足を運んでいる人もいた。男性の高齢者が多かったように思うが、壮年の男性もいた。女性と若者はいないように見えた。皆、服装もよれよれで、顔色も悪く、笑顔も会話もなく、まるで落武者か敗残兵の一行のようだった。交差点でたまたま止まって、近くでしばらくその人たちの通り過ぎるのを見ている間、私はどう表現したらいいのかわからない、悲しみでも憐れみでも怒りでもその他の何でもない、ただの衝撃にひたされて、ずっと目を離せなかった。

「風と共に去りぬ」で、スカーレットたちを守って炎上するアトランタの町から間一髪脱出したレットが、南軍の敗残兵の一行を見かけた後、不意にスカーレットたちと別れて、軍に志願してしまう場面がある。もちろんスカーレットは激怒して、たしかレットをひっぱたく。あの場面にどこか似ていた。でも私にはスカーレットも軍隊もなかったけど。

その次の「むなかた九条の会」の定例会で、近況報告や情勢報告をしあった時、私はそのときのことを話した。自分が参加できなかったことの残念さも告げながら、あのときの情景が周囲に与えるだろう印象を考えると、やはり参加者があまりにも疲労困憊するような集会やデモは少し運営を考えた方がいい気がするという話をした。多分、皆さん、反発はされなかった。参加されていた事務局の男性が、「実はあの集会はとても長引いて、決意表明とかがたくさんあって、そのどれもがわりと長くて、集会が終わる時点でもう皆へとへとだった」と報告してくれた。「参加者の健康のことを考えても、あれは何とかしなくちゃなあ」と私は言ったような気がする。

私はこういった会議その他で、発言や講演をするとき、まあ、はまって皆を元気づけるときもあるが、違和感やものたりなさを感じさせることの方が多かった。白けさせる、冷水を浴びせるとまでは行かないが、ちょっとそれに近い感触を皆に持たれていることを感じることが普通だった。ああ、皆、こういう迷ったりどっちつかずだったりの得体のしれない話じゃなくて、もっとはっきり敵の悪さを明確にしてこっちの正しさを確認して、元気やパワーを再生できる話が聞きたかったんだろうなと、よく感じた。

でもさー、人間にはそうそう毎回、映画「トロイ」「グラディエーター」や、ヘンリー五世の聖クリスピンの日の突撃前に兵士たちを鼓舞する将軍みたいな演説ができるわけないやんね。というわけで、「私の話って、九条の会とかでは人気ないんよねー」と笑って言って回りながら、私はだからこそ私はここにいなくてはいけないんだとも考えていた。

それにしても、そういうことを考えると、あのときの私の指摘や皆とのやりとりに不穏なものは何もなく、おたがい素直に実態を認めあったような印象はある。

それきり私はそのことを口にしなかったし、何かの提案も提言もしなかった。そのときに見た情景と印象だけがいつまでもはっきり目に残っている。周囲とそぐわない疲れ果てたよろめきながら進んで行く高齢者の群れ。それが今、ひろゆき氏が見たであろう、からっぽの座り込みの現場の風景に重なる。

一時期、日本でも二大政党待望論があった。相反する二大勢力が交代して政権をになうことで、両者が切磋琢磨して国と国民のためにつくすよい政治ができるのではないかと。

しかし、いろいろあるにせよ、この十年近くのアベ政治は、反対意見への尊重も理解もなく、ひたすらに自分に都合のいい者だけを優遇し、批判や反対に対しては徹底的に攻撃したたいて弱体化させるという方針しかとらず、それは彼ら自身を腐敗させ劣化させたと同様に、反対勢力や批判勢力に確実に打撃を与え続けた。その結果が、運動の高齢化や周囲との温度差を生み続け、民主主義や平和や人権を守る運動を細らせている。

一時期のシールズの活動、沖縄のねばりづよい戦いなど、懐の広い、展望の開けた活動は、野党にも刺激や影響を与えて一定の力にはなったけれど、やはり今、心ある多くの人が、さまざまな点で疲れ果て、年老い、死んで行っている。それを補う希望はもちろんいくつもある。しかし、無人の座り込み、デモの帰りの人々の姿、などの中に私は、自分自身もふくめた、疲弊し衰弱して滅びに向かう未来をかいまみる。

このような戦いに力がないわけではない。今年はついに行けなかったが毎年参加していた原水禁平和大行進も何十年も前から私は宗像市の区間は歩いていて、一時は十人足らずだったりしたころもあったし、それが数十人に増えた時期も見た。

名古屋にいたころ、何もする気になれない中、ようやっと参加した核兵器反対だったかの集会は、広大なグラウンドのほんの一角にしか人は集まっておらず、フォークソングを歌った人の「失われたものはとりかえせばいい」という歌詞に、そのあとでスピーチをした女性の一人が反応して「失われたものはとりかえせないんです!」と叫ぶなど、何もかもがちぐはぐで盛り上がらなかった。その日の日記に書いた詩の一節に私は「力づけてもらえるとでも私は思っていたのか」と、自分の甘さを指弾している。

そんな愚直で実りのない集会や行動がどれだけあったことだろう。それでも、それが重なって、政府の暴走や社会の腐敗、人権侵害や戦争への布石をくいとめつづけて来たことを私は決して忘れないし、否定しない。それを、この肌で、この目で見て知っている。無名のままにそういう努力をし続けて、死んで、消えて行った人々も何人も知っている。私の知らない数しれないそういう人がいたことで、今の自分がまがりなりにも平和と安全の中で生きていることも知っている。

たださー、ひろゆき氏をはじめとした多くの若い人たちが、そういうものを見たときに、「これじゃいかんだろ」「もっと効果的な、効率のいい方法が」と思ってしまうのは、当然かとも思うのだよね。どういうか、私の中のスカーレットがだね(笑)。

だって、無駄なことが我慢できなくて、最低の力で最高の効果を生む発想や手法に命かけて心砕いて生きてる人なんでしょ、いやひろゆき氏のことよく知ってるわけじゃないんで、誤解があったらごめんなさい。でもこれ別に悪口じゃないのよ。ほめ言葉でもないだろうけど。

それに、諸般の事情や情勢や要素を(あくまでいいかげんに、本能的にざっと)考えたとき、ひろゆき氏の沖縄に対するアプローチって、こういうやり方しかないんじゃないかとも思うのよね。本土の人に関心を持ってもらうにせよ、彼が今さら菅原文太さんや樹木希林さんのような態度で接触できるキャラじゃないしさ、ああやっておちょくる、斜に構えた角度からしか、乗り込む方法はないんじゃないですかね。

私は最近、体力の衰えもあって、「自分にしかできない戦い方」を選択することに決めてるんだけど、これがどれだけ傲慢なことなのか、まちがってるのか、自分でもよくわからないの。ひろゆき氏の行動や発言を見ていると、そういう点で、ちょっと身につまされるのかもしれない。(もうちょっと書きたいことあるんで、また続けます。)

ところで、例の庭の黄色い花の草、今朝やけくそで地植えしてみたら、何だかものすごいことになっちゃった。根付いてくれるといいんだけど、だめっぽかったら刈り込んでやる。

でも、彼岸花の枯れたのを切っただけでも、横庭はちょっとすっきりなったかもね。

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カツジ猫