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ひろゆき氏と沖縄(3)

私のこの文章は那覇市長選に際して、どっちに有利になるのかしらとしょうもないことを考えて公開をためらっていたりしたら、思わず間があいてしまって、もう皆この事件のことを忘れてるかもしれない。だから、と言うのでもないが、簡単に書く。

沖縄の座り込みについてのツイートが話題になったあとでの、ひろゆき氏の発言を読んでいたら、「米兵に対してデモ隊や抗議する人が『死ね』とか罵倒するのは言い過ぎだ。人間なんだから、やはり守ってくれている人たちに好意を持ってもらうようにした方がいい」というようなことばがあった。いや、こういうのは、どうまとめても、ちゃんと誤解を生まないような紹介にはならないものだけど、これだけ見たらつっこみどころは満載だと思う。

私だってすぐに思い浮かぶのは、「こういう歴史と現状の中で、地元の人に歓迎されてる好意を持たれてると思ってもらっても、それはそれでまずいんじゃないか」とか、「あんたが作った2ちゃんねる界隈の発言や気遣いとは、かなりちがう雰囲気だが、それはひょっとしてネットと直接の発言とは別のモラルが働くのか、はたまた外国の軍隊とか政府や体制側の強い存在には別途の配慮があってしかるべきって感じなのか」とか、そういうことだもんね。

もしかして強い相手にでも敵にでも、好意を持ち合うようにしておけば、次第に何もかもうまく行くのではないかという処世術かモラルか礼儀作法とかが、彼や若い世代には潜在浸透していて、だったらそれは、いい意味での平和ボケで、世界平和に通じる感覚でもあるかもしれんなあ、と思ったりもする。そりゃ畑で突然遭遇したイノシシと取っ組み合いして「耳をつかんではさみで突きまくった」とか話す85歳の高齢者の世代とは、深くて広い川があるよなあともね。

あ、ちなみに完全な横道の話だけど、トランプもけっこうなトシだと思うけど、海外ドラマの「セックス・アンド・ザ・シティ」のすっごい初期のころの回に、彼がちょこっと出てるんだよね。カメオ出演というのかな、ほとんど画面を横切るだけぐらいの。もちろん、そのころは、ただの金持ちで政治家でもなかったから、サービスだかゲストだかの登場で、でもさ、そのときの外見って、今とほぼ変わらんのよ。何十年前の話よ。プーチンだって70過ぎてるんだし、もうどういうか、とんでもない世代よね。って、私も同世代だけど。

まあいいや。私はとにかくアベ元首相の得体のしれない空っぽさに比べると、ひろゆき氏の言ってることや感覚には、たしかに彼という人を感じるし、つかめるのよね。だから、彼や若い世代の人たちが、畑でイノシシと格闘するような世代に違和感や畏怖や嫌悪を感じるのも何となく見当がつくのよね。

それに共感する部分も、ないわけじゃないのよね。
ただ、事実として、私たちの若いころの時代には、「死ね」とかそういう言い方は、特に弱者が強者に抵抗するときには、タブーではなかったのよ。本当に、想像を絶するほどに。

いろんな集会で「インターナショナル」以上によく歌われる「がんばろう」という労働歌の作者は荒木栄という有名な人で、私はこの人の歌はそこそこどころか、かなり好きだ。まあ、母から軍歌と讃美歌をいっしょに習って、「杉野はいずこ」だの「もろびとこぞりて」だのをほとんど三番まで歌えたりする私だから、好みはめちゃくちゃなんだけどね。

学生時代の自治会活動の中で覚えた荒木栄の歌もかなり歌えるけど、私が中でも好きだったのは「三池の主婦の子守歌」と、「この勝利ひびけとどろけ」(歌詞は下の方のリンクを見てね)だった。

後者は、ベトナム戦争の時期に板付基地(今の福岡空港)から出撃していた米軍の戦闘機に抗議して、10万人の人が集まってデモ隊の列が飛行場をとりまき、刺激するのを恐れたのか、その日一日ジェット機は一機も飛び立たなかった、という事実に基づいている。どうせ話を盛ってるだろ、と言われるだろうけど、そのころはそういう話が不思議でも何でもなく感じられたし信じられたし、メディアも政府も誰も否定はしなかった。

私は民青同盟にも入っていて、共産党系の人たちと活動していたけど、それに対立する過激派とか全共闘とか言われてた人たちは、この集会のことを批判して何て言ってたかというと、「たかが十万で板付基地を包囲して、一日ジェット機飛ばせなかったぐらいで勝利したとか言ってる甘さにあきれるしかない」とバカにしてました。つまり「そんなことぐらいで」勝利したとか言うな、って論理で、だから「そんなこと」は大したことにはちがいないけど、誰も疑わないぐらい普通で当然のことだったのです。

私自身もこの歌(こちらのバージョンでは松葉杖の老婆の叫び声は一応女性の声だけど、男の人が叫ぶのもあって、仲間の男子学生は「おばあさんの声、男なんだよなあ」って笑ってたりしたっけ)は何回歌ったかわからないし、歌集で目で歌詞を読んだ記憶もあります。で、今はネットでいくら探しても、当時の私たちが歌ったバージョンのは見つからないんだけど、当時は、同じころかちょっと前に、やはり荒木栄が作った、「ゴーホームヤンキー」という歌が、途中に挿入されていました。私はそんなこと(別の歌が合体されてたこと)は知らないで、最初から、そういう歌だと思って歌ってました。こういう文句ね。

 ゴーホームヤンキー、ゴーホームヤンキー、
  沖縄から板付からゴーホームヤンキー、

そして、この後に「アメ公、帰れ!」という叫びまでがついてたのです。今は「ゴーホームヤンキー」の歌の中にさえ、これはないけど(おっとっと、リンクしたバージョンには残ってたわ)、そのころは多分歌詞カードにも書いてあったし、私も歌って、叫んでました。まあ、こだわりもあったかもしれないけど、特に「アメ公、帰れ!」はね。でも、ためらったことはなかった。

原水禁世界大会とか大きな大会には、外国からの代表もいっぱい来るわけですよ。当然、アメリカの人も。一度私はさすがにちょっと気になって、アメリカ代表の人も歌うの?と聞いたことがある。そしたら同級生の男子が「大きな声で、にっこにこして歌ってたし叫んでたよ」と言うので、はああと感心したのを覚えています。

その時も思ったけど、じゃ私が同じ立場で、日本がひどいことした国に行って、そこで「出て行け、ジャップ!」なんてかけ声のある歌を合唱しなくちゃならなかったら、どうするかって言うと、私は歌ったし叫んだと思うのね。別にそういやじゃなく。

何てやつだ非国民!とか今ならきっと言われるよね。でも私はきっと、こだわらなかった。
 「水の王子」のいつ書くかわからない続編の中で、村を守る若者たちが、「世界を守るのが、この村を守ることになる」と言い切る場面があります。他国や敵国と共同して自国を攻撃してでも、世界にとって何が正しいかを選択し行動するというのが私の基本でした。それは今でもまったく変わっていません。ボードー・ウーゼの「愛国者」じゃないけど、自国が誤りを犯して世界を滅ぼそうとしているなら、自国と戦うのが愛国者だと私は考えています。

たださ、一言言っとくと、しばらく前にアメリカが「世界の憲兵」として、あっちこっちの国に無理無体な介入や手出しをしまくってたのは、これと同じ発想によるものだったとは思うのですよね。ややこしいけど、そういう危険もあるわけなのよ。

「三池の主婦の子守歌」は、三池闘争を題材にしています。哀愁漂う音調が何とも言えず、一番に登場する夫の描写に当時の私はしびれて、ほれました(笑)。三池の会社側は暴力団をやとって、ストライキをしていた労働者たちを襲撃させ、死者も出ました。私たち学生の集まりに、その闘争の体験者が来て、普通に淡々と、「自分たちもいろいろ工夫した。〇〇さんが殺されてからは、腹を刺されないように濡れた新聞紙が一番いいということで、皆それを腹に巻いて座り込みしていた」と語ったのを忘れられません。

この子守歌の二番は、

 小さなこぶしをふりあげて
  ケイカンカエレと叫んだ子
  目玉を命を奪われた
  たぎる仲間の憎しみを
  この子に孫に伝えたい

です。たぎる憎しみを孫にまで伝えたいと、お母さんが歌うのです。優しい声で切々と。

いいとか悪いとかはまた話すとして、そういう時代だったのです。そういう歌が生まれ、歌われるだけの悲惨な弾圧もまた存在したのです。沖縄にももちろん、それと同じかそれ以上の事情や事件がいくつもあった。レイプされ今も引きこもる少女も、殺された子どもも、奪われた土地も。

会社の雇った暴力団に失明させられ殺害された労働者や、基地や外国人の軍隊によって障害者や被害者になった人たちには、激しいことばや憎しみをあらわにぶつけることが認められ、許されていた。警官でも兵士でも役人でも政治家でも、仕事であれ立場であれ、彼らを苦しめる人たちの側に立つ者に、それを苦にする権利はなかった。それは世間の常識でした。それを誰もが知っていた。絶対の力を持ち、法や権力を使って弱者を苦しめる者には、同情や共感を求めることは許されなかった。私自身、恵まれて、人の上に立つ者になれば、そのような覚悟で生きて来ました。

それがいいとばかりは思いません。ひろゆき氏をはじめとした今の時代の人々が、もはや「弱者は何をしても許される」という感覚を持てないこともわかります。これについては、このブログで公開している「情けあるおのこ」を読んで下さい。そういったことにつながる私自身の問題を徹底して書いてみたつもりです。

ただ、そういう時代を生きた人たち、そういう時代が築いて生み出したものに、ひろゆき氏も私もふくめた多くの人が、今守られてもいると思うのです。それを忘れてはならないし、失ってはならない。それを確認した上で、新しい方向に踏み出していかなければならないと思うのです。

思えば私は石牟礼道子さんが作り上げ支えた、水俣病の被害者の人々の戦い方にいつもなじめませんでした。被害者たちが法廷でその他の場所で、チッソの会社側の人たちに浴びせるそれこそ呪いや罵倒に近い抗議や訴えを私は複雑な思いでいつも見ていました。けれど、あのような表現ややり方でなければ被害者たちは彼ららしく戦えなかったろうと思ったし、石牟礼さんもそのことをわかっていたのだろうと思いました。
ちがうやり方があったのかどうかはわかりません。でも、もしかしたら、あのような抗議活動が理解され受容されたのは、やはり、「弱者は何をしても許される」ということが社会にまだ根強かったからではないかという気もする。今だったら、もっと拒絶反応が強かったのではないかと思ったりする。(現に被害者たちがチッソの関係者をもみくちゃにしたり罵ったりした記事は、ネットで探しても今はちっとも出て来ない。そういうのを公開してたらまずいっていう判断がきっとあるのでしょう。それは多分まちがってはいないでしょう。)

最初に簡単に書くとか言ってたわりには、ものすごい長さですが、これでも簡単に書いたつもりです。一応これで終わります。

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カツジ猫