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ふわっふわのパンをあきらめるタイミングについて。

◇桐野夏生「夜の谷を行く」は、いい本なんだけど、連合赤軍じゃないけど学生運動もしてた同時代の高齢者である私としての、個人的なひそかな感想は、「えらい、ヒマな主人公やなあ」ということだった。いやそりゃリンチ殺人で服役した過去を隠してひっそり生きてる人なんだから、こうなるかもしれないんだけどさ。今現在の世の中の動きにもほぼ無反応だし、ジムに行ったり食事したり買い物したりしてるけど、それでもすごくヒマそうなのだ。

私なんて頭の中は、えっと行きつけのパン屋の休みは水曜日、ジムも休みは水曜日、なじみのお花屋さんの休みは木曜日、スーパーのポイントが倍になる日は今月は火曜と木曜、途中まで見たDVDの続きを誰かが借りる前に借りてしまうにはいつ行けばいいか、冷蔵庫のブロッコリーは黄色くなりかけたぞ、ネギも使い切らなきゃだぞ、見たい映画の公開は今週までか来週までか、このセーターはもう少し暑いけど、あと数回は着なくちゃもったいないか、このソックスは処分しようか家ではこうか、青いブラジャーはさあどこに行った黒のスリップはいったいどこに入れた、鯉のぼりを立てようかおひな様を飾ろうか、猫の命日だ犬の命日だ九条の会のビラの原稿だ沖ノ島の件の打ち合わせのメールだ、読みたい本をネットで注文したけどお金を送ったっけ、草を取らなきゃ花を植えなきゃ神棚のサカキを換えなきゃ、新聞読まなきゃ買った本読まなきゃ、などなどなどなど、これに授業の準備と論文書きと趣味で書いてる小説の構想と、友人への電話と、家の片づけと猫の世話と、あと何だっけまだまだあったと思うが思い出せない、あ、このブログも書くし。

まあ私があまりにもアホなのはともかくとして、今言ったことの前半ぐらいは、いくら過去をかくしてひっそり生きてる独身高齢女性でも考えながら生きてないかね。考えずにはいられないよな気がするのだが、そうでもないのかしらん。

◇というわけで、なくなりかけていたおいしいパンを、ぎりぎりまで食いつないで、木曜にパン屋に行った。時間が昼近くなっていて、売れてしまっていたのもあったが、お目当ての品をいろいろ買いこんで帰って、毎回悩むのだが冷蔵庫に入れないと傷むのだけど、入れると若干固くなる。焼けばいつまでもおいしいのだが、それでもできたての、ふわふわのは、やっぱりそのままで食べたい。しかしそのまま置き過ぎてカビが生えては、元も子もない(その部分をちぎって、残りは食べるけど)。

ふわふわを犠牲にして、保存するのに、どれを選んで冷蔵庫にしまうか、とつおいつ悩んだ末に、ほとんどそのまま棚においたままにした。そして昨日も今日も、まだふわふわのそれを一個ずつ天にものぼる思いで食べている。しかし、そろそろ固くなってきたようだし、あきらめて今夜冷蔵庫に入れようかと思っている。

◇「ぬれぎぬと文学」の授業で学生たちに見せようと、「ないた、あかおに」の絵本を買いに行ったら何種類かあったので、調子にのって複数の店で、見つけた三冊全部買った。おにの顔がなんかいまいちだな。他にもありそうなので、もうちょっとさがしてみるか。昔私は「ノアの箱舟」でもこれやって、たしか5冊か6冊ちがう絵のを持ってるんだよな、どっかに。

他の買い物もあったので、イオンで夕方うろちょろしてたら、きれいな女性とかわいい女の子に声をかけられた。実は昔湯布院で買って、毎年この時期に着ることにしているというか、この時期しか着る時がない、こいのぼりを改造したワンピースを、今年は特に毎日来て回っていて、でもあんまり誰も反応しないので、つまんないなと思いつつ、今夜で着納めだなあと思って着ていた。そのきれいなお母さんとかわいい子どもは、はにかみながら「素敵なお洋服ですね」とほめてくれ、「今日は子どもの日ですから」と言うので、何のことかと思ったら「よかったらいっしょに写真を撮っていただけないでしょうか」というのだった。わーい。私自身よりも、もうかなり古びて来て、来年はお役御免でホームドレスにするしかないかなと思っていた、このワンピースのために私は喜んで、買い物もバッグも放りだして、女の子を抱きよせてカメラにおさまった。あとで考えるとジェンダー的に、女の子だったのも、とてもうれしいかもしれない(笑)。

ところで浮かれて家に帰って、カツジ猫を抱いたら、やつがかみついて来たので、床に放りだしたら、やつはつめでしがみついたはずみに、このワンピースの胸のところを破ってしまった。何だかドラマティックな展開だなあ。まあこれも行きつけのクリーニング屋さんに頼めば補修してくれるだろうから、明日持って行くことにする。

◇昨日ここで紹介した、木下ちがやさんのスピーチの「独裁者は、人を諦めさせるのがうまい」ということについて考えている。それは「夜の谷を行く」の感想ともどっかで通じることかもしれないのだが、私がこうやって花だの猫だの飯だの服だのと全方位に興味関心を抱き(まあやりすぎって話もあるが)、ぴちぴち元気でいるためには政治的社会的関心も絶対に持っていなくちゃだめなのだ。生きた心地がしないのだ。そういう日常的な楽しみや生きる歓びを、何かからの逃避にしたくないし、何かの黙殺の上に築きたくはないから、どっちも私には欠かせないし、すべてがすべてを支えている。

改憲を望む人などがよく言う、「九条さえ守っていれば大丈夫と思っている九条信者」という言い方が私はどう反論していいかわからないぐらい、とことん、すべて、ぴんと来ない。信ずるも何も、九条なんて私が支えてるから存在しているんだとしか私は思っていない。九条も日本も世界も、冗談でもなく比喩でもなく、私がこの手で支えてやっているんだというのがずっと私の実感だ。私の発言が行動が呼びかけがデモが署名がスピーチが、考えること悩むこと迷うこと結論を出すこと読むこと見ること知ることのすべてが、そのまま世の中を動かし、変え、支え、くいとめているという感覚は、毎日毎秒、私の中にある。壁や天井を押さえる手と、ふみしめる足に加わる圧迫のように、この手のひらと、足の裏で、私はそれを実感している。

言いかえれば、その感覚の快感は本当に健康にいい。世界と日本の現在と過去と未来を、わが手につかんでいるという実感は、別に支配者や権力者でなくても十分に持てる。多分安倍晋三より私の方が、そういう実感は持てていると断言できる。諦めて生きるとは、この実感を手放して、失うことだろう。それはものすごく不愉快で不幸なことだし、健全なことではない。

◇だが実はもう一つ、私が生きて行くのに
欠かせないものがある。それは現実でも架空でもかまわないが、何かを激しく愛することだ。現実にそういう存在がいない時期でも、私は常に小説や映画や、自分自身の空想で、何かを激しく愛し、夢みて、今風の言い方で言うなら「萌えて」来た。
最近それが失われている。私は病的で不健康な、口に出せない欲望のさまざまを、充分に持とうとしていない。これから死ぬまで、そんなものに費やする時間はもったいないという気持ちが、きっとどこかにある。

しかし、それがなかったら、世界や社会との関わりも、生きる歓びも日常の雑事も、やはり何かの核を失うのではないかと、今、思いはじめている。たとえ、表に出したり人に知られたりすることがなくても、そういういかがわしい夢や欲望や空想が、私の立派な理想も、冷静な理論も、育てて作り上げる根源になっていたはずなのだ。
それを忘れたら、おしまいと思う。だから、まったく何にもならなくて、誰に見せることもないとしても、やっぱり小説をまた書きはじめようと決意しかけている。

◇あれ、夕食を食べそこなった。今から、冷蔵庫にしまう前の、最後のふわふわのパンでもサラダといっしょに食べよかな。

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カツジ猫