ぼくたちの、しんぱい(カツジ猫)
みなさん、こんばんわ
かいぬしの、たんじょうびが、ちかいらしくて、
「ことしは、どこにでかけようかな」と、かいぬしは、かんがえているようです。
かいぬしは、たんじょうびには、だいたい、どこかにでかけます。
だから、さぷらいずで、だれかが、おいわいにきたり、なにかをおくってきたりすると、
よていがくるうから、とても、いやがります。
「だいたい、このとしになって、ひとりぐらしのおんなが、
たんじょうびに、ぼやっと、ひとりで、いえにいるなんておもうのが、
なんだか、ひとをばかにしてるとおもわないかい。
としよりが、ひとりで、さびしく、むかしのあるばむでもめくりながら、
なみだめで、うすい、すーぷでもすすっていると、おもってるんだろうか。
ふざけんじゃないよ、まったく」
と、よく、ぼくにいっていました。
でも、ぼくが、それをきいて、まいとしかんがえていたのは、
「ようするに、いえが、あんまりちらかっていて、
いえにいたって、たのしくないから、
よそににげだしているだけじゃないのかよ」と、いうことでした。
そんなふうだから、ぼくがいきているあいだ、
かいぬしのたんじょうびには、だいたいぼくは、おるすばんでした。
ことしのなつに、ぼくはしんだので、
いまは、かいぬしが、どこにいっても、ついていけるから、
ちょっと、たのしみです。
ぼくよりだいぶまえにしんで、このいえに、いっしょにくらしている、
ぼくのせんぱいねこの、きゃらめるさんと、あにゃんさんは、
まえはよく、たんじょうびの、かいぬしについて、
えいがかんや、びじゅつかんや、おんせんにいってたらしいけど、
なんじゅうねんもたつと、もうあきて、
いえで、おるすばんをすることが、おおいらしいです。
かいぬしは、「ことしは、えいがも、てんらんかいも、
おもしろそうなのがないねえ。
おんせんは、とおすぎて、めんどうくさいし。
いっそ、すいぞくかんか、どうぶつえんに、いこうかしら。
こどものときから、もうずっといっていないし、
あまり、わたしのしゅみじゃないけど、
しぬまえに、もういっぺんぐらい、いってもいいかな。
どっちにしようか」といいだしました。
ぼくたちのすがたは、みえていないんだけど、
ときどき、なにかかんじるのか、
ぼくたちに、はなしかけることがあって、
「おまえたちは、どっちが、いいかい」と、ひとりごとのように、
ぼくたちのいけんを、ききました。
ぼくたちは、さんびきとも、それで、すっかりこうふんして、
どっちがいいか、まいにち、はなしあっています。
きゃらめるさんは、どうぶつえんがいいらしいけど、
ぼくは、なんだか、こわいので、
すいぞくかんのほうが、いいです。
あにゃんさんは、まよっているみたいです。
「まあ、どっちにしても、あとは、かいぬしが、
にわでころんで、あしをいためたり、
かぜをひいたりしないことだな」と、
きゃらめるさんがいったので、それも、しんぱいです。
いきているときなら、かいぬしが、よなかすぎまで、
しごとをしていたら、ぼくが、にゃあにゃあいって、
じゃまをして、やめさせて、
はやめにねるようにさせていたんだけど、
もう、むりをしても、とめるひとはいないんだもんな。
ちょうしにのって、しごとして、からだをこわして、
けいかくが、ちゅうしになったら、どうしよう。
そうなったら、がっかりだよなあ。
