ぼくの、けはい(カツジ猫)
みなさん、こんばんわ
かいぬしは、このごろ、
「おまえがしんで、まだ、さんかげつにもならないというのに、
なんだか、おまえのいないせいかつに、なれてきて、
おまえの、かおや、こえや、うごきを、おもいだせなくなってきた。
まえは、へやのどこをみても、おまえのすがたがみえるようだったし、
あちこちいったり、うごいたりするたびに、
おまえがくるようなきがしてたのになあ」
と、さびしがっています。
「わたしも、もうとしだし、つかれぎみだし、
おまえがいきかえってきてくれても、
じゅうぶん、せわをしてやれるかどうかわからない。
きっと、ふあんや、もうしわけなさで、おちつかないだろう。
それがよくわかっているから、おまえにいてほしいとか、
よみがえってほしいとかは、そんなにおもわない。
でも、そうはいいながら、おまえにあいたいし、かおがみたいし、
さきがどうなろうと、いっしょにくらしたいとも、おもう。
おまえのきおくが、うすれていくほど、
あいたくて、たまらなくなるのは、
じっさい、どうしたもんかねえ」と、いっています。
こっちがききたいよ、そんなこと。
て、いうか、ぼくのきぶんも、びみょうなんだよね。
しんでからこっち、いきてるときにはみえなかった、
せんぱいねこの、あにゃんさんや、きゃらめるさんと、
あそんだり、いっしょにねたり、なめあったりして、
このいえで、まいにち、すごすのも、わるくないし、
かいぬしのめには、みえないんだろうけど、
まいにち、いっしょに、くらしているのにも、
なんだか、とても、なれてきて、
ぼくてきには、あんていした、たのしいまいにちになってるんだ。
そのぶん、ぎゃくに、けはいが、うすれちゃうのかな。
かいぬしの、おかあさんは、もうだいぶまえに、しにました。
でも、しんだすぐあとでも、かいぬしは、そんなにさびしくなかったし、
いつも、そばにいるようなきもちがするといってます。
いまも、なにかあるたびに、「あ、でんわしなきゃ」とおもったりするけど、
とくにそれで、かなしくなるわけでもないし、
とにかくずっと、いきているのと、ぜんぜんかわらないきがするのだって。
「おまえとも、ああなるといいんだけど」といってます。
「たぶん、そうなるんじゃないか」と、きゃらめるさんはいいました。
「てざわりや、うごきや、かおなんかは、どうしても、そのうちに、
わすれていくだろうけど、そのぶん、べつのなにかが、
ちゃんと、のこって、かたちになっていくんだよ。
いきているときとは、またちがった、
しんだあとの、おまえを、ちゃんと、かんじられるようになるさ」って。
そうなのかな。
そうだといいんだけど。
「いまおもえば、きゃらめるがしんだあとは、
きょうだいねこの、みるくがのこっていて、
わたしは、かれがあまえたり、かれをみていたりするたびに、
きゃらめるのきおくがうすれて、みるくのことばかりのこりそうなのが、
くるしくて、たまらなかった。
それで、とうとう、みるくを、いなかのははに、あずけてしまった。
ほかのねこに、きおくをぬりかえられる、こわさと、
いまのように、もう、かわりのねこもいないなかで、
おまえのきおくだけが、うすれていくさびしさと、
どちらが、つらいのか、ときどき、かんがえる。
こたえは、みつからないけどね」と、
かいぬしは、このまえ、みえないはずのぼくにむかって、いいました。
いったい、このさき、どうなるんだろう。
「ときがたつのを、まつしかないよ」と、
あにゃんさんは、いうんだけど。
