菱岡憲司訳「椿説弓張月」3・4感想
もうかなり前になってしまうが、菱岡憲司氏の現代語訳「椿説弓張月」の第四巻(光文社古典新訳文庫)が送られて来て、死ぬほど忙しいのに、朝からベッドに転がって朝食も食べずに一気読みした。(先月だっけに来た三巻も、とっくに同じように一気読みしている)。
いやー、本当に面白いなあ。

馬琴が書くと「八犬伝」の千葉県あたりも、ファンタジーの別世界異世界になってしまうのだが、それでいて、どこかにちゃんと、その地域の気配が残る。伊豆の大島も、今回の琉球(沖縄)も同じで、これは作者が地名や資料で、その地をめちゃくちゃ把握していて、自由自在に使いこなしているからなんだろうか。奇想天外、天衣無縫な空想なのに、全然不自然な感じがしない。
登場人物は山ほどいるし、その関係も錯綜するのに、少しも読んでいて混乱しない。だいたい、江戸時代の演劇は歌舞伎も浄瑠璃も、筋書きを口で説明しようと図なんか書くと、ますますややこしくなって、絶対わかってもらえそうにないのに絶望するが、これが実際に舞台を見ると、なぜかするりすんなり頭に入って来る。多分私だけではない。視覚に訴えるめりはりが効果的ということなんだろうか。
馬琴は無類の演劇好きで作品にもそれがよく現れている。視覚による効果をどうしてかは知らないが、文章や構成から、彼は会得しているのではないかと思うぐらいだ。
三四巻は琉球王朝をめぐる権力闘争で、裏切りやら画策やら妖術やら戦闘やら、ありとあらゆるアトラクションが目白押しなのだが、くり返しもなく冗長でもなく混乱しないし、テンポがいい。崖だの火事だの、冒険小説にはおなじみのアイテムがここぞとばかり登場するが全然マンネリの感じがしない。「三国志」や「水滸伝」など、本家の中国俗文学にもまったくひけをとらないが、同時に現代日本の「十二国記」などの長編ファンタジー小説を読んでいるような、みずみずしさと熱さがみなぎる。そういうジャンルを好む人は、ぜひぜひ読んでみてほしい。私はそんなに詳しいわけではないが、現代のそういうジャンルの作品は多いだけに玉石混淆で、中には私の趣味に合わないだけかもしれないが、退屈なものや冗長なものもあったりする。「椿説弓張月」は、現代のそういう作品の中においても、まったく古くなく、見劣りもしない。
怪しげな魔術師が駆使する怪獣や天変地異の数々。とっくに死んだ人物が、主要人物に憑依して大活躍する。愛すべき脇役陣がばったばったと惜しげなく次々に死ぬ。現代のファンタジー文学に使われる要素は皆登場すると言ってよい。
馬琴は勧善懲悪で登場人物を型にはめると批判されたりするが、とんでもない。悪意もなく暗愚でもないが、指導者や支配者の器ではないあいまいな人物など、しっかりと描かれている。すぐれた人物が敵を見抜けず誤解にはまって、誤った判断や行動をする展開も少なくない。シェイクスピアをはじめとした古今の名作家が皆そうであるように、馬琴は登場人物すべて、とりわけ悪人の心理や心境にしっかり感情移入できる人で、この作品にもそれが生きている。さらに、これも彼の作品の特徴だが、常に村人や民衆が登場し、ときには騙されながらも結局は正しい判断をして、主人公たちを支える。これは、現代の時代劇にまで連なる、多分江戸時代に確立された、大衆や民衆への明るい信頼でもある。
私はもちろん「八犬伝」は大好きで、馬琴の最高傑作と思うが、徹底的に丁寧な描写が、楽しみつつもときには重い。「弓張月」はその点まだ、説明や描写があっさりしている(馬琴にしては、という当社比較だが。笑)分、かえってテンポのよさが目立つ。「八犬伝」のダイジェストを読むぐらいなら、この「弓張月」の現代語訳を読んだ方が、はるかに役に立つし、ためになるし、何より面白い。
あらためて、こんな作品を残してくれた馬琴に感謝するし、現代語訳を出してくれた光文社古典文庫に感謝する。もちろん、現代語訳をしてくれた菱岡憲司氏にも。
私は町田康が好きで、彼のぶっとんだ「古事記」や「義経記」の口語訳を楽しんでいる。橋本治の「枕草子」も悪くない。しかし当然ながら彼らの場合は作者の個性が勝負であるからそれぞれの訳はぶっとんでおり、何より「彼らの」古事記や義経記である。当然こちらの好みに合うものもあればそうでないのもあるし、それでいい。
菱岡憲司氏の訳は、それらとはもちろんちがって、正確で精密な考証にもとづいている。それを感じさせないほどに、文体はなだらかで読みやすい。しかし、それに徹すると、これまた下手をすれば、安心して読めても、冗長で平凡になるだろう。生気や熱気や覇気が、どこかにこもらなければいけない。馬琴の持つ勢いと情熱と愛が再現されなければならない。
菱岡氏は大学時代に文芸部を設立し、自分も作品を毎回載せていたように、創作の方面でもまったくの素人ではない。またラストに付された解説でも明らかなように、外国語も学び、外国文学も愛読多読している人である。
創作活動を体験しているからと言って、古今東西の文学を読破しているからと言って、すぐれた人間にも研究者にもなれるわけではなく、むしろその反対にいろんな異なる面で箸にも棒にもかからない、くだらん人間になることも多いのは、たくさんの実例を見て私はよく知っている(笑)。読書量も知識量も、それだけでは人格も能力もちっとも保障しはしないと、自省も含めて確信している。
それでも、この「椿説弓張月」の菱岡氏の訳文には、そういう体験や知識が溶け込んで反映しているのではないかと思わずにはいられない。決してこけおどしではなく抑制されて最小限にとどめられた、かゆいところに手が届くような注釈と言い、抵抗なく流れながら、確実なめりはりで、読者の興奮と緊張を過不足なくつなぎ続ける訳文と言い、決して自分の能力や才能を表に出さずに空気に徹する精神がこもる。
実は感想を書くのが遅れたひとつは、このような工夫や配慮の数々を、多分まだまだ私は見落としているのだろうなという危惧だった。目立つまい隠したいと思っている努力の数々を、あばきたてるのも野暮だろうが、まったく気づいていないと気づかれるのもしゃくである。批評や評価というものは、すなわち自分の貧しさや鈍感さをあらわにすることでもあり、私自身が自分の文章や著作に関するさまざまの批評を読んで、あ、この人はこういう嗜好で趣味で生き方の人なのかと、その人の裸体どころか下手すりゃ局部を見るような気分になったことがよくあるのとも思い合わせて、書くのが恐いし恥ずかしかった。
多分、菱岡氏にして見れば、これもきっと、かいなでの、やたら威勢よく褒め上げただけの文章できっとものたりないだろう。見てほしかったたくさんのことを見てくれてないとの物足りなさも感じるだろう。しかし、負け惜しみをいうなら、そういうことに気づかせないのが、質の良さだし、よい所なのだと言うしかない。
あ、そうそう、最後に蛇足だが、「水滸伝」の英雄豪傑をすべて女性(女性は男性)におきかえた合巻「傾城水滸伝」(このホームページの「ガイア」論文の項に所収の「傾城水滸伝覚書」を参照)や、老婆がアベンジャーなみの大活躍をする「八犬伝」にもあるように、馬琴の作品には、はんぱでなく戦う強い女が登場する。武芸にすぐれた為朝の妻白縫も、彼女を守る脇役の女たちも、みごとに強い。そして、そういう武闘派ではなく、支配者として理想的な(男性の場合と同様、だからちょっと目立たなくて影が薄いが、理想的で立派な為政者とは、まあそういったものである)女性について、「三十になってまだ男性との関係がないが、そんなこととは関係なく立派なすぐれた、王としてふさわしい人」と評させているのも、あの時代にしても今にしても、なかなか見られない発言の気がして、その行き届きぶりに、何だかいろいろつくづく感心してしまう。