まずは菱岡憲司現代語訳「椿説弓張月」
後回しにして、ちびちび読もうと思っていたのに、手に取ったら下ろせなくて、文庫本二冊、一気に読んでしまった。続きの発売が待ち遠しいし、いろいろあれこれ、書きたいことは山ほどあるが、少しずつ記して行くことにする。
書きたいことは、おおむね三つ。
その一。読み始めてすぐ怒涛のように思い出したのは、幼い日に子どもの本で夢中になって読んだ、「弓張月」の圧倒的な面白さと魅力。スケールの大きさ、テンポの速さ、異国情緒その他もろもろ。歴史上の現実の敗者が、物語の世界では敗者でなくなりパラレルワールドを支配するという、頼もしくも力強い実感。思えば歴史や現実はそれはそれとして確認しながら、それを凌駕する物語世界の勝利を、心に刻みつけられて生涯失わなかったのは、あの読書体験があってこそだったかもしれない。おかげで現実の格差や競争、ランク付けなどの意識から、私は常に徹底的に自由でいられた。敗北感も劣等感も抱くことなく、自分の世界を築いて、豊かでありつづけた。それが、あらためて今よみがえる。なつかしくさえない、ずっと私が知っていた世界。ないようでいつも、現実にも私のそばのあちこちに、常に存在していた世界。
その二。もちろん、それを可能にしたのは、菱岡憲司氏の現代語訳。前後に記された、ぎりぎりまで絞り上げて凝縮して切り詰めて一般の読者に伝わる努力を惜しまないで、それでもなお、膨大で緻密で隙のない馬琴研究の要約。どこをついてもゆらがない、ごまかしも逃げもない解説は、このような土台の上になされた現代語訳であることを、専門家のみならず、おそらくはどんな読者にでも本能的に知らせて、信頼と安らぎを与えて身をまかせられる。
しかも、その上で選び取られた現代語訳の文体は、ときに砕けてふにゃりとくつろぎながら、あくまでも愚直なまでの正確さと格調を失わず、何より自分の才能や筆力を見せびらかさず、とことん脇役、黒子に徹する。馬琴に憑依しよう、一体化しようとする意地汚さや自己顕示欲とはまるで無縁な、絶妙の距離と冷静さを保ちつづけて、断じて読者の邪魔をしない。それはうがちすぎな言い方をすれば、馬琴という巨大な存在に巻き取られまいとする研究者としての矜持であり、作品との激しい格闘にも見える。
その三。私は「近世紀行全集」という叢書を計画して、体調不良もあって、もう数十年放ったらかしているのだが、その中で、八丈島紀行についてまとめた「島の生活」という論文と作品群がある。怠けずに刊行しておけばよかったと残念でならない。字が小さくて注が多くて読みにくいが、これがもとの論文で、もっと一般の方々に読みやすくしたのが、『江戸の旅と文学』(ぺりかん社)の中に入っている。その最後あたりの部分に詳しいが、江戸時代の八丈島紀行は多いし面白いし、読んでいて楽しい。これらを思い出しつつ読める自分の幸福をちょっとかみしめつつ、独占する申し訳なさも感じ、何らかのかたちで、完成させたいと、あらためて思ったりする。そういうエネルギーも与えられた。
おまけ。恩師の一人中村幸彦先生は、馬琴をあまりお好きではなかったように記憶する。加減を知らない野暮なまでのエネルギーと執拗さが、さらりとおしゃれな先生のお人柄とは相容れないのかもと思ったりしつつ、いろんな意味で馬琴が好きだった私は、わずかな淋しさも感じながら、そのことについて特に深くは考えなかった。だが今、菱岡氏の現代語訳を読んでいると、もしかしたら、この文体の、この訳なら、中村先生はお好きかもしれない、こういう馬琴を求めておられたのかもしれない、馬琴の魅力を感じていただけたのかもしれないという気がしてくる。それをもう知るすべはないが、そういう思いがけない空想を生めるだけでも、私はとても楽しいし、感謝している。
というのが、書きたいことの「骨格」です(笑)。時間があったら、またひとつひとつについて書きます。でももしかしたら菱岡氏は「そんなことよりとっとと紀行全集を書け」と言ってくるか思っているかもしれないなあ(笑)。
写真は先日の「国宝展」の展示から。
