もうちょっと妄想(笑)
朝ドラ「風、薫る」について、もうちょっとだけ悪乗りを。
前回、二人のヒロインが、エリートと底辺層それぞれの、鈍感さ図々しさエゴさを体現してて、どっちも恐いし嫌いだけど、そこが面白くもあるみたいなことを書いた。
私は人を見る目なんかないし、人生体験も少ないし、友人知人も交友関係も、そんなに多い方じゃない。だけど、気がつくと、いつの間にか自然に、決して人を利用しない、安易に自分にかしづかせない、人につくしても、人には自分につくさせない、そういう人を自分の回りに残している。そんなに深いつきあいでなくても、相当気が合わなくても趣味がちがっても、気がつくと結局はそういう人とのつながりだけを、細々とでも保っている。
かなり親しくしている人や、楽しくつきあっている人でも、平気で他人を自分にかしづかせ、こきつかっている人とは、どういうかどこかで距離を感じている。そういうことが決してできない、いつも他人につくして、よそから見たら損をしているような人でないと、私は自分を預けられない。
あんまり高級な理由や哲学があるわけではない。しいて言うなら、家族や親族が皆そういう、人につくしても、自分にはつくさせない生き方をしていたから、単に慣れてるってこともある。たまたまだったか知れないが、仕事や学問で触れ合う、上司や先生たちも、皆そういう人たちだったから、ますます、そっちに傾いた、そういうつきあい方でなければ生きられない身体になったのだろう。
ごくたまに、ちらと会うことのある超一流の芸術家や有名人でも、そういう人らしいとすぐわかる人はいた。会ったことはないが、めちゃくちゃな思いつきで言うと、手塚治虫や柳田悠岐は、そういう種類の人ではないかと感じたりすることがある(笑)。
一方で、たとえば学問の世界でも、人をかしづかせて自分の仕事をさせるのが自然で普通のこともあるし、それは師弟関係のひとつのかたちとして、有意義な面も多分ある。また、それに近い日常生活でも、相互の助け合いみたいな関係を築いているようで、とても自然にいつの間にか、周囲や他人を自分の便利なツールとして、はたから見ていて、えっと思うほど何の抵抗もなく、あたりまえのように支配してこきつかう人もいる。こういう人たちも私は面白いなあと思ってながめていて、それほど腹も立たないし不快にもならない。ただし、自分が使われるツールとみなされたと感じたら、そうならないような距離はとる。
つまりというか、あたりまえだが、エリートだろうが、どん底にいようが、人を利用し、自分にかしづかせるのが当然と考え、無意識のレベルでそれを実行する人は、必ずいるし、変えようったって変わらない(と思う)。一方で、そんなことが、どうしてもできない人がいる。多分、私もその一人だ。
私は、自分が人につくされたり、犠牲を払われたりするほどに、自分が価値のある人間だと、どうしても信じられなかった。私に限らず、そういう人は、しょせん大きな仕事はできないし、生き方にも限界があるのかもしれない。
だが、その一方で私は、そうやって人の力を利用して自分につくさせる人は、これまた決して大きな仕事はできないだろうし、生き方にも限界があるのじゃないかと感じていた。
どっちが正しいのかはわからない。多分、どっちもどっちなんだろう。
でも、少なくとも私の場合は、私は自分がめざすもの、築き上げようとするもの、見つけようとするものは、いくら人の手や目を借りても何の役にも立たないだろうという実感があった。私の求める世界や幸福や真実や成果は、私にしか見つけられないし作れないと、いつも心からわかっていた。もちろん、個々のことでは人の助けも必要だし大事だが、基本的には私のしようとしていることや、めざそうとしているものは、人に説明しようもなく、手伝ってもらいようもなく、それだからこそ価値があった。他人からもらったり奪ったりしたものなんて、何の役にもたつわけがなく、むしろ、他人が求めるものを与えて、他人がめざす、その人でなければできないものを成就させる方がいいと思っていた。
だから私が願い求めるのは、いつも、「私に、私にしかできない仕事をさせる時間をくれ。そして放っておいてくれ」でしかなかった。
考えてみれば、人にかしづかせ、自分につくさせ、そうすることを当然と思い、それしか世の中には生き方がないと思う人の典型は、今のトランプさんなんだろうな。つくづくと、そう思う。
もっとも、「風、薫る」の場合、りんのお母さんがいつの間にかご近所の人を、自分に奉仕させているのは、私はそんなに気にならないし、いっそ好きだ。なぜだろう。ひとつは、あれは、ご近所の人のストーカー願望や、ボランティア快感を満足させているから、一方的な献身でもないと思うからだろうか。
ところで、母家を整理していて、読みかけの本の中から、ずっと前に買った文庫本の『ブライズヘッドふたたび』を見つけて、寝る前にちびちび読んで読み上げた。作者イーヴリン・ウォーのカトリックへの信仰が大きなテーマらしかったが、こちとらそれは知らないから、ただドラマ「ダウントン・アビー」や映画「モーリス」の世界が細かく展開するようで楽しく、前半の美貌の友人との同性愛にも似た愛情が、後半の彼に似た肉親の女性への恋に移動して行く展開は、高校時代に愛読した福永武彦の『草の花』を思い出させ、さらに子どものころ大好きだった『小公子』のお母さん、アメリカ女性のエロル夫人が、最初祖父の英国伯爵に会ってもないのに嫌われるのが、終盤のブライズヘッド邸の当主が息子の結婚した外国女性のがさつさを忌み嫌うのと重なって、エロル夫人は大変だったのだなと思ったりした。それと、屋敷の女主人がいろいろもらす述懐の中に、「貧しくて不幸な人たちは、神に愛され、世の中で同情されていて、それは私たちには得られないもの」みたいな発言があって、これは私が「情けあるおのこ」の中でしつこくこだわった、「恵まれた者への逆差別」に近いか重なるかする意識だなと思って、珍しく、興味深かった。
まだしょうもない本をいろいろ読み飛ばしているのだが、なかなか感想を書くヒマがない。食べるだけ食べて、消化不良を起こしてる感じ。どうしてくれよう。
