よれよれパイロット
昨日の新幹線の事故は、結局人手不足のなせるわざだったというようなことをテレビのニュースで現場の人が言っていたような。新幹線って開設以来、たしか一度も死者を出すような事故を起こしてなくて、私が自慢するようなことじゃないが、何となくどこかで誇らしかった。それが、いつの間にか人員削減でガタが来てたのかと思うと、たとえば大学の現状などとも重なって、どことなくうらぶれて不安で悲しい。だってニュースで事故の起こった過程を聞いていると、素人耳にも明らかに人手不足の多忙化が原因じゃないか。この分じゃ原発だって、どんな状態かわかったもんじゃない。
今日は地域の方との俳書を翻刻する勉強会だった。下調べをしていても、久しぶりに見る変体仮名や意味不明な語句が、もう楽しくてしかたがない。身体の一部が目ざめて行くような気がする。
そうなんだけど悲しいことに、私は俳諧関係は専門じゃないし、ここ数年の不勉強で、とても勘が鈍っている。こんなのは職人技と芸術家の統合みたいなとこがあって、たくさん本を読み、古文に目をさらしていると、おのずから身につき肌にしみこんで来る知識があって、それはもう、かけた時間と読んだ資料が、残酷なまでに否応なしに差をつける。だから、楽しくはあるんだけど、もどかしいし、いらだつし、でもまあ、それさえが快い(笑)。
私は子どものころ、本ばっかり読んで勉強(趣味として楽しいものだった)ばっかりしてたから、日常の生活や料理や家事や化粧や掃除みたいなことに関して恐ろしいほど無知だった。高校生になるまでマッチがすれず、大学に行くまで炊飯器でも米の炊き方を知らなかった。だから小説を書いていても、生活の些事についてはまったくアルプスの頂上やインド洋の航路なみに何ひとつわからず、書くことがなかった。それがいつの間にか一人暮らしをする中で、そういう家事だのファッションだのにすっかり慣れて楽しんで自由自在に道具も材料も使いこなせるようになって、毎日楽しくてしかたがないし、することが次々増える。
まあ、この順序で身につけて学んだ方が、少なくとも私にとっては生きる上では幸せだったとは思う。学問だの哲学だのをこの年になって学ぼうとしても今の日本の社会じゃ難しいし、生活の知恵を最低限マスターした老後や末期は、快適で幸福なものだから。さはさりながら、以前は身につけていただけに知識や学問の勘が薄れて行ってるのは、参加者の人たちには申し訳ないことだとは思う。よく外国映画にあるじゃないですか。若者たちがスポーツやら戦闘やらで、昔は凄腕だったパイロットとかコーチとかを雇ったら、もう昔の面影もなく、アル中やらヤク中やらになって、やる気もなくしてぶくぶく太って、でもまあ何とか使い物になるかどうかって状態な、あれ。自分が今、ああいうパイロットかコーチになってる気がすんのよね。いいけどさ。
とにかくそれでも一応読書会は無事に終わって、参加者の方から立派なセロリなんかまでいただいて、明日はサラダを作ろうと、リンゴを一袋買いこんできた。ニューハンプシャーではトランプが勝利したようでムカつくが、今はとにかく私自身の健康を第一に考えないと。
写真は近くの河東コミュニティセンターにある、教育大の先生が制作された戦没者慰霊の平和の塔。今日、通りかかったので、つい写真を撮った。もう何年も経っているが、見るたびいつも鋭く清々しく、心がひきしまる思いがする。そう言えば、私が近く自費出版する本のタイトルと同じで「空へ」という名の像じゃなかったかしらん。