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アナとアン。

まあ、まだちょっと早いですが(笑)、梅雨支度をいろいろ始めてます。
叔母の遺品などで、けっこういい腕時計はいくつか持ってるんですが、どれもこれも、防水がすごく弱い。うーん、金持ちの人は夏になっても梅雨になっても、汗をびっしょりかいたり、雨にぬれて歩いたりなんてことは、めったにしないものと見える。
 
なぞと、ひねくれていてもしかたがないから、去年これも叔母の遺品の中から出てきた、大昔のデパートの商品券で、通用するかどうかを試しがてら、海にもぐってもいいような、ごっつい腕時計を買いました。少しでも女性らしくと文字盤がピンクのを買ったのですが、逆に妙なすごみがあって、笑えます。
梅雨から夏は、もういかにドレッシーなかわいいかっこうをしていても、時計はこれで通すのですが、最近、他のデリケートなお姫様のような腕時計たちを定期のチェックに出したついでに、ごついそいつも分解掃除してもらいました。
 
ひとつも手元に時計がなくなり、昔昔ゲームセンターのUFOキャッチャーでつりあげた安いやつを探したけど見つからず、やっぱり叔母が遺して行った、白い幅の広い革ベルトがついて、二センチ四方のどでかい真四角の黒地に赤いバラの花模様がついたふちに囲まれた文字盤の、派手でごっつい腕時計を、ここしばらく、つけています。ふだんは壁にかけて、掛け時計がわりに使ってたぐらい、でかいのです。
マッサージに行ったとき、若い男性のトレーナーはこれ見て「すごいすね」と感心し、「板坂さんとこに行ったら、面白いものがたくさんありそう」と、博物館に対するような興味を示しました。
 
で、やっと分解掃除などがすべて終わったという連絡が入ったので、食費をけちってためたお金をにぎりしめて、受け取りに行きました(こういうところが、私の経済生活はまったくゆがんでいるのです。金はないのに物はある。映画は見るのにバターが買えない)。
そのついでに、これも多分十数年前、愛猫キャラメルが死んだとき、写真立てにしようと思って買った、手のひらに入りそうに小さい、片面が文字盤、片面が写真入れになってる銀色の小さい時計を持って行きました。結局、他の写真立てが見つかって、これはそのままにしていたのですが、先日死んだ三毛猫シナモンの写真を入れてやろうと思って。
 
シナモンがうちに来てすぐの、小さい子猫だったとき、廊下からキャラメルのお墓を見ている写真が何枚かあります。お墓は私が植えた花でおおわれていて、その向うにシナモンがいます。
ただの感傷ですが、猫の写真を飾るとき、身体を切り取れなくて、どうしても全身をまるっと切り取るので、こんな小さな額に入れるときは、小さな写真を切り抜くしかありません。
で、その写真も持って行きました。写真入れの部分を開けるねじが、ものすごく小さいので、時計屋さんなら開けるドライバーを持ってるかなと思ったのです。
「こんな小さいドライバーって売ってます? だったら買うんだけど」と聞くと、「いや、普通の店にはなかなかないでしょう」と言って、すぐに開けてくれました。「ちょ、ちょっとお待ちを。写真を入れます」と、はさみを探したら忘れていて図々しくそれも貸してもらい、シナモンを切り抜いて、入れて閉じてもらいました。なかなかいい感じにしあがって、今、他の亡くなった猫たちの写真といっしょに、カツジのいる家の棚の上においてあります。
 
ついでに言いますと、今プロフィル欄に入っているのも、幼いシナモンの写真です。

※プロフィル欄の写真を変えたので、こっちに移しておきますね。(5月20日)

「ねこの肉球」なる名著?の中の「肉球占い」によると、最もバランスのとれた優等生の賢い猫のタイプという、全面ピンクの肉球が、これみよがしに映っているのが笑えますが、この時点ではシナモンの最高の売りだった、先の細まった美しいしっぽのかたちは、まだ完成していませんねえ。びっくりしました。いつの頃からシナモンのしっぽは、あんなに美しい非の打ちどころのない筆先みたいになったのでしょう?写真が少ないこともあってなかなか思い出せないのですが、ここ数年のことだったのかしら?
 
NHKの朝ドラの「花子とアン」、もう別にアンの話でも村岡花子の話でもないとわりきって、毎回笑って楽しむことにしてるのですが、突っ込んでくる「赤毛のアン」の原話からとったネタの使い方が、もう例外の一つもなく原作の精神をまっこうから否定してくるのが、いったい、もはや、わざとなのかなあ。
これまでも、たいがいいろいろ、ひどかったのですが、今朝の、アンの教える生徒の一人で、ポール・アーヴィングって空想好きのいいとこの坊ちゃんを、花子の教える生徒の一人で貧農の女の子にしたのも、たいがいわかってないですけど、まあそんなのは今さらいいです。しかし、アンや花子に関係なく、ただの話として見ても、話せば絶対人から変人よばわりされて、それこそエルサみたいに魔女扱いされる自分の空想を、教室でいじめっ子もいる前で、読み上げる、読み上げさせるって、もうそれ、ゴジラがマックでコーヒー飲んでるとか以上に、あり得ないから。どう考えても、絶対に。
 
ちなみにポールは作文の課題で、同様の空想を書いて提出しますが、それは教師のアンしか読まないとわかっていて、それも、信頼できる先生と知っているから書いたので、だからそれがアンへのひそかな「同志」と認めたサインにもなるわけです。それにしても危険なことで、ポールにとっては思いきった冒険に他なりません。
そういう、原作がふくむ、ありとあらゆる要素を、あの脚本と設定はまったくひとつ残らず無視してるのが、いっそみごとという他ない。まあもう今さら怒りも驚きもしやしないですけどね。あそこまで行ったら、毎回逆に快感ですよ。
 
しかし、今朝のあれを見ると、脚本家も演出家も、製作者すべては、アンや花子を理解してないという水準の問題じゃなく、「赤毛のアン」の源泉であり、根幹である、「空想し夢見ることの危険」「異分子、少数派としての悲しみと幸福、そして連帯感」を知らない分らないどころか、まったく察することすらできない、アンやポールのような人たちを一番苦しめ、笑わせる(もう、笑うしかない、というぐらい意志疎通が不可能だから)人種の、それも自分じゃ自覚はない、一番たちの悪い部類に属するんじゃないかなあと、私はつくづく感じ
ましたね。いやーもう、でももう、くり返すけど、今さらしょうがないっちゃあしょうがないんだから、あのまま突っ走っていただきたいわー、変に委縮するとかえってよくない。というか、どうなるか恐いもん。
 
「アナと雪の女王」をこきおろしてる合間に、おまえも忙しいやっちゃと言われそうですが、両者を比べるっつう、とことん不毛なことすると、私まだ「花子とアン」の方がよっぽど許せるし、見てて気分がいいですよ。やってることがものすごすぎて、腹も立たない。こちゃこちゃ細かく本性をごまかしてる「アナと雪の女王」よりは、野蛮な獣が裸踊りしてるようで、いっそ気になりません。つうか爽快です。次第に身体がじわじわ腐る毒薬で、じわっと殺されるよりは、まさかりで頭からまっぷたつにされる方がずっと救われるじゃないすか(フォローになっとんのかと言われそうですが)。

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カツジ猫