キャベツをきざむヒマもない(笑)
つくづく思うが私はどうしてこんなに忙しいのかねえ。家族は猫だけ、仕事は非常勤だけ、体調がいまいちなのを口実に、政治活動も社会活動も研究もさぼりっぱなしでいるというのに。
この前、家を片づけてたら、「その内に皆といっしょに遊びに行きます」と書いてある若い人からの手紙が出て来て、半病人の老人のひとり暮らし、掃除も接待もままならぬ家に、皆で押しかけるとかやめてくれーとパニクりながら日付を見たら数年前で、ほっとした。きっと返事も出さなかったんだろうなあ私。
だけど昔は、それこそ徹夜で忙しかろうが、家がごみためのように散らかってようが、連日下手すりゃ十人近く、遊びに来てたこともあったのだから、まあ、そのころを知ってる人が、同じように遊びに行こうと思って、そんな手紙をくれるのも、まあ無理ないっちゃあ無理もない。
そうやって訪ねて来て、トイレの掃除もろくにしてなくてどことなく臭い、ごみためっぽいほこりだらけの家の中で、よろりよろりと足をひきずりながら歩いている白髪交じりの私を見て、時の流れに涙して、諸行無常をつくづく観じて、ああ昔はもう戻らないとか、しみじみするのも、そう悪くはないかもしれない。そういう悟りや虚しさを感じさせるのも、年寄りの役割りかもしれない。
私のそういう気持ちの中には、多分ひねくれた反発もある。それこそトシをとって見なければわからなかった心境のひとつに、最近「古き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける、月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ」みたいな古い歌だの何だのを見ると、わけもなくムカッとするようになったこともある。浅茅が原で悪かったなあとか、自分の夢見ていた、思い出の中の都だの故郷だの旧友だの友人だのが、消えたり変わったり老いさらばえたり荒れ果てたりしてたからって、それで芸術作ったり感傷にひたったり悟り開いたりしみじみしたり勝手にすんなよ、虚しくなったりしみじみしたりした分のゼニでもよこせとかいう気分かな。
ロシアの昔話に、木の苗を植えていた老人を笑って哀れんでいた若者たちが、けんかや病気で皆、老人より先に死んでしまって、老人がかわいそうにと嘆く話があって、私はその老人みたいに優しくないから、よぼよぼのじいさんばあさんに「私が誰かわかる?」などと子ども扱いしていた若いというか中年の人が、はやばやと先に死んでしまったりすると、嘆くより先に、自分のことでもないのに、妙に勝ち誇りたくなったりする。けっ、何が浅茅が原だと思ってしまう。
そうかと言って、昨日だっけ、どこかで紹介されていた宮本信子の新作映画で、都会で成功して、でも虚しくて疲れた男女が、故郷の田舎の老女に母の安らぎを見出す、みたいな話を聞くと、これはこれでまた怖気が走る。私、宮本信子は好きだし、原作者の浅田次郎は、読んで違和感感じてムカつくのが好きという意味では愛読者かもしれないが、それはこういうとこなんだよね。
もうさ、つくづく思うけど、故郷や田舎や老人は、ふだんはほっといて、疲れたら癒やしてもらったり自分を見つけたりするために訪れるサナトリウムでも売春宿でもないっちゅうのよ。どっかにいつまでも変わらない素朴な暮らしだの小綺麗な家だの西の魔女だの何だのがあるとかいるとかいう幻想は、えーかげんにしてくれませんかっちゅうのよね。疲れるんだから本当に。
思えば私は昔「シェリタリング・スカイ」って映画を見たときも吐き気がするぐらい嫌いで、昔からヨーロッパの連中が文明とやらに疲れて、南の島だの熱帯だの砂漠だのに心身を休めに来るのは、つくづく人をバカにしてると思ってた。あのころ私も若かったから、この心境は別に自分が年取ったからってだけのものでもないな。何かこう、セーラー服のJKに欲情するおじさんと共通する気味の悪さを感じるのよね。ありもしない、あってほしい場所や人を夢見て、それがなかったら、またそれをおかずにして精神的オナニーで悟りやら無常やらをかみしめて自分に酔う。アホかいな。
そう言えば、もっと言うなら私は人類が核実験や公害で地球をほろぼすとか地球を守れとか聞くたびに変な気がして、そりゃ私は人間ですから、ほろぼしちゃいかん守ろうとか一応は思いますけど、たとえ世界が海になろうと毒ガス帯になろうと、地球や宇宙はちっとも困らず、またそれにふさわしい生命体が出てくるかもしれないし、困るのは人間だけだろとも、子どものころから思ってた。その延長線上にあるのかもしれない、この気分は。
それはとにかく、私だって、これでも世のため人のためにはつくしたい気もないではないし、老若男女いろんな人と、おしゃべりしたくも遊びたくもあるのよ実際。本当に。
だけど、今はもう、とりあえず、片づけなければならない、ためこんでいた仕事がありすぎるの。どうせ自己満足かもしれないけど、ただの紙屑の山、ごみの山になりそうなものを、できるだけでも整理しておきたいの。それができる時間がどのくらい残っているのか私には皆目わからない。死ぬまで十年、ぼけるまで五年と思ってたけど、もっと早いかもっと遅いか、自分でもまったくわからない。
だから当面、今、人とつきあいたくないのです。でも、時には気晴らしで遊びたくもあるから、そこはなかなか困るのです(笑)。まあ、仕事のめどがつくか、あきらめがつくか、どうかしたら、それでまだ、足腰動いて、ぼけないでいたら、またいろいろと本当に最終の遊び時間が残っているでしょうから、おつきあいもおしゃべりもしたいけど、その頃はもう皆に見限られていて、それこそもう、訪れる人も思い出す人もない、何も残ってない浅茅が原になってるかもしれないなあ私自身が。それも覚悟はしています。
しかし、仕事を仕上げるためにも、無理はしたくないから、睡眠とって食事もして、文明人らしい生活を保っておかないといけないから、その加減もものすごく難しい。毎日が綱渡りのスリル満点で、生きた心地がしない。いやはや、猫だって、こんな人間のそばにいたら、精神不安定にもなるよねえ、かわいそうに。
その猫にもさっき、おさしみをわけてやりました。喜んで食べて、今は寝ています。私の方はせっかくエビフライの安売りパックを買ってきたのに、つけあわせにするキャベツも先日安売りの半玉を買って来てたのに、きざむ時間がなくて、結局白菜刻んで浅漬けにしてたやつの残りで我慢しました。
浅田次郎の「母の待つ里」、映画は見に行かないまでも、文庫本はきっと買ってムカつきながら読むんだろうなあ。「虎に翼」や「ハックルベリーの冒険」や「オーロラの彼方へ」や、まだまだ書きたいことはあるんだけど、今夜はこれで。あ、猫がまた、にゃあにゃあ鳴いて、早く寝ようと呼んでます。寝る前にもう一回、お月さまを見て来ようかな。
月は真上に上がって来ていて、これはこれで面白いかも。
昔、田舎の家の、大きな屋根の上で、昼のぬくもりを残したままの瓦の上に寝そべって、月の光に遠くまで照らされた田んぼや山や川をながめて、夜を過ごしたことを思い出します。誰にも知られず、たった一人で。いやはや最高の月見でした(笑)。