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クマ!

◇いや、まいった(笑)。
今日は雨模様で、久しぶりに近くの店でランチを食べた。食後のコーヒーを飲みながら、現在計画中の大規模な断捨離の手順を考えていた。

主として、田舎の実家をいつでも売れるように、カラにしてしまっておこうというのが目的だが、膨大な本と資料はこちらの家につめこんで、家具は大半処分するとして、まあそこそこ上等のものは誰かがもらったり使ったりしてくれるだろうが、祖父の代からの茶棚やたんすや応接セットなどは、私が見限れば即ゴミである。そういうのを、どうも手放す気になれなくて、何とかこっちの家に入れてみたいと、あれこれ考えていた。

私が今いる家は、それなりに家具も調度も壁の絵も、一応バランスがとれている。ここに田舎の古い家具をつめこみ過ぎると、不協和音が生じて、みっともなくなるのは目に見えている。だが、そこを何とか、カッコよくできないかと、あれこれ頭をひねっていた。
田舎の家はやたらと広いので、壁の絵も相当大きい。こちらの家は全体を書庫にして本棚を林立させるから、そもそも壁がない。そういうことも含めて、あれこれあれこれシミュレーションして、まあ何とかこれなら行けるかもという想定図が次第に出来上がりつつあった。

◇今度、実家に帰った時にメジャーを持って走り回って、家具や絵画やすべてのサイズを計らねばならないと思いながら、頭の中で田舎の実家を思い出して、一部屋ずつチェックしていた。築100年に近いかというような古民家になりそこねの母家のことを考えていて、あれは処分、あれは人にあげる、あれはこっちに持ってくる、などと確認しながら二階の座敷を思い出していると、突然まったく忘れていたものをひとつ気づいて、本当に漫画や映画にあるように、うっぷとコーヒーを吹きそうになり、ついでひとりでに笑いだしたくなって、ものすごく困った。

今はフローリングにしているが、そこは畳の十八畳敷きの大きな部屋で、祖母はその部屋をちょっと自慢にしていたと思う。さりげなくお客さんに見せたりしていた。
当然立派な床の間があったが、大きすぎて、そこに置くものがなくて、ずっと空っぽだった。掛け軸は何だか山水画のようなのがかかっていたが、どこに行ったかわからない。祖父の死後、骨董屋さんが来ていろんなものを持って行ったので、その時に母が渡したのかもしれない。
私は10年ほど前に湯布院で買った画家の人の大きな絵をかけていた。それは、わりとよく似あっていて、その絵をどうするか、こっちの家のどこにおこうかとは、ずっと考えていた。

でも、完全に忘れていたのだけど、床の間には、けっこう巨大な北海道の木彫りのクマがいたのだよね(笑)。
しかもこれ、私が就職して最初のころの給料はたいて、函館かどっかで買った代物だ。
当時、北海道を旅した江戸時代の紀行を調べようとして、よく函館の図書館に行っていた。飛行機は嫌いで新幹線もまだなくて、青函連絡船で海を渡ったものだった。そこで、調査の帰りに入った店でそのクマを見て、実家の二階の座敷におくのにいいかもしれないと思って買ったのだ。多分相当な値段はした。でも、骨董屋が持って行かなかったんだから、売れそうにないと思われたのかもしれない。

◇私は美術品を見る目なんかないし、木彫りのクマのよしあしなんて、ましてやわかるはずないから、よくわからないが、きっとテレビの何でも鑑定団にでも出せば、さんざんな値段になるんじゃないかと思う。でも、とにかくクマはこの40年近く、そこの床の間でがんばっていてくれたのである。
たしか「怒り熊」と名がついていた。口を開けて咆哮していて、前脚の片方をパンチするように持ち上げていた。私は家に帰らないで、クマだけ送ってもらったので、もう亡くなった近所のおじさんが手伝って包みをほどいて、すえつけてくれたらしいのだが、その時そのおじさんは「シャケがあるはずだ」と言って、包みの中を相当さがしていたらしい。このクマは、あの定番のシャケをくわえていなかった。そういう付属品が何もないのも、ちょっと私は気に入っていた。

今ネットで「怒り熊」を調べてみたら、似たのはいくつかあるが、同じようなものはない。だいたい、やっぱりシャケをくわえたのが多い。
私たちはめったに二階に行かないから、クマはほったらかされていて、ときどき磨いてでもやったなら色つやもよくなったと思うが、多分ほこりをかぶって古びているんだろう。しかし、そう言えば、ときどき見ても、そんなに色あせた感じはしなかったから、それなりに立派な木でできているのかもしれない。まあ二階は風通しもいいし湿気もないから、保存場所としては悪くなかったはずだ。

◇私はしばらく、コーヒーを手に呆然としていたのだが、あのクマをいったい、どうすればいいんだろう。
買う人や欲しがる人はまずいないだろうし、だいたい、どのくらい立派なものか価値があるのかもわからない。
でも、長いこと、あそこにあって、しかも私が初めての給料で買ったものだと思うと、やっぱり私がそばにおいておくしかないような気がする。
しかしどうするんだ。十八畳の座敷の床の間で違和感なかったクマだぞ。今私がいる狭い家に置く場所なんかどこにもない。本当にない。
そういうことを考えていると、もう妙に笑いだしたくなって困る。

まあ、椅子がわりにはなるかもしれない。座り心地は超悪いだろうが。それに私の狭い家の狭い部屋においておけば、ライオンをペットにしているマフィアかアラブの大金持ちのようで、悪くないかもしれない。
しかし何しろこの40年間、さわったこともあまりないから、実はどのくらい重いものかもわからない。あれ、私が一人で動かせるんだろうか。
考えれば考えるほど、あまりにすべて、どうしようもないので、またひとりでに笑えてくる。

◇というわけで、このクマがどうなるのか、私にもまったく先が読めません。
こんなもの、どこにおいていても、それだけでものすごく変な家になるというのだけは十二分にわかっているのだけれど。
まあ今度、写真でも撮って来ます。皆さんに見てもらったって、どうなるものでもないですけどね。

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カツジ猫