チョコパイ。
◇寒中お見舞いのハガキで母の死を報告したので、いろんな方から、お悔やみや慰めのお便りをいただく。うれしくありがたいのだが、それでも一向悲しみがわいて来ないというのも、ここまで来ると心配だ。まさか母の入院費がなくなって、自分の年金がまるごと使えるようになった喜びとかもあるのかなと、自分の心をのぞきこんで見るけど、そんならそれで、うしろめたさや自己嫌悪や屈折したやりきれなさが生まれて来そうなものであるが、そういうものもさっぱりない。
ひとつには母自身が、祖父母や叔母やその他の身内の亡くなったとき、全然と言っていいほど嘆かなかったことだろう。冷たいのでもなし、もちろん憎むのでもなし、けろっと落ちついていた。
昔、田舎の家の庭にあった、崩れかけたニワトリ小屋を何とか始末したくて、私が火をつけて燃やしたことがある。けっこうな炎が上がって、ちょっと危なそうだったので、一応母を呼んで、状況を見せた。母といっしょに庭に出てきた、たまたま訪れて来ていた近所のおばさんは、燃え盛る火柱を見て相当びびった。しかし母は笑ってながめていて、小屋が燃えつきて片づいたとき、「さすが私の子だ」と言った。母が私をほめたことなんか、まずないと言ってよく、基本的にはバカにしていたと思うが、その時はたしかに私に満足していた。私が母の死を嘆かず涙も見せず悲しみをこらえさえしていないのを見て、母はあの時と同じように満足して「さすが私の子だ」と喜んでいることに、私は何の疑いも持たないでいられる。
母は祖父と仲が悪かったのだが(昔は寵児だったらしい)、死後も墓の世話などはしていたが、生前の冷たさを別に後悔もしていなかった。かわいがっていた猫たちが死んだときも、あまり嘆いたことはない。「生きていた時けんかしていたものを、死んだからって仲直りできるもんか。そのくらいなら、生きてる内に何かしてやる。死んでから嘆いたって遅い」と言い、「あの猫は私は生きてる間に、もう十分かわいがったから思い残すことは何もない」と言っていて、私は「すごいなあ。その二つが組み合わされば、もう何も恐いものはないじゃないか」と思っていた。
◇私は母のようではなかった。飼い猫や飼い犬が死んだときは、それなりにとても悲しかったし、祖父母や叔母や叔父の死後もときどき切ない気持ちになった。母の場合だけ、なぜここまで、まったくすごいほどに、からりと心が乾いていて、しかも充実しているのか、まったく少々自分でも気味が悪い領域に達している。
そう言えば、母は一度テレビで冤罪事件が報道されていたとき、「だけど、もし私は、あんたが誰かに殺されたとして、その殺した人が本当に後悔して許してくれと言ってきたら、私は許すと思うけどね。だって死んだものはしょうなかろうもん」と、本当にぬけぬけと、普通の顔で、私に向かって言ったことがある。私はそのころ、仕事帰りの夜遅く一人で歩いて帰るときなど、ああもし私がここで暴漢に殺されたら、母はどんなに嘆くだろう、立ち直れないかもしれないと心配していたものだが、それを聞いて、内心尻もちをついたが、安心もした。私に何があっても、この人は世界とつながり他者とつながり、ちゃんと生きて行くとわかった。私の今のこの安堵感は、そういったこととも、どこかでつながっているのだろう。母を失って嘆くほど、母は私のものではなかった。母はもっといろんな人のものであり、何よりも母自身のものだった。これまでも、これからも。
◇明日(もう今日か)は母が死んでひと月なので、何かを供えてやろうかと思ったが、考えてみると、母は特に好きな食べ物はなかった。餅や西瓜は嫌いだったが、あとは大抵のものは喜んで食べていた。味や服に好みはあったが、特定のものにこだわるのではなく、そういう点ではとことん質素だった。猫の命日にそれぞれの好みのエサを供えるほどにも、私は母の好みを知らない。これを買って行けば喜ぶというものもなかった。
しかたがないから、よく買って来いと注文されていた、チョコパイのお菓子と、ナッツなど何も入っていない、一番単純な四角いチョコレートを買って供えることにした。これを買っておけば母は満足していたような気がする。幸い10年来変わらず、どちらのお菓子もまだあった。明日は花といっしょに、これでも供えておくことにしよう。