1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. ベテルギウス

ベテルギウス

うららかな、と言いたいぐらいいい天気だった。テレビやラジオが明日からずっと雨だから、今日の晴天を最大限に利用しろと口をそろえて言うものだから、せいぜいせっせと洗濯をし掃除をし、とちくるって人の踏みそうなところに出て来た水仙を掘り起こして植え替え、いろいろ仕事を片づけた。

買い物に行く車の中で聞いたラジオかテレビの放送では、首相が施政方針演説で、桜のサの字もカジノのカの字も言わず、オリンピックのことばかり19回も口にしたと、アナウンサーもコメンテーターもさすがに冷ややかに報じていた。何やら流れは「やめる人」という感じになっているようで、よいことではある。

それにしてもオリンピックをこうやって国威発揚に使いまくるというのが、本当にうんざりする。マスコミも世間もいいかげん、日本が金メダルを取るかどうかだけじゃなくて、いろんな国の選手や、その背景を紹介して、世界平和のための競技大会らしく少しはしてほしい。

文庫本の「サーカスの夜に」と、「海と空のピアノ」をぼんやりと読み終えてしまった。小川糸さんはエッセイなどは好きなのだが、「サーカスの夜に」は、もちろん悪くはないのだが、型にはまって予定調和というか意外性や毒がなくて、ものたりなかった。こういう雰囲気の世界や家族や仲間って、私には何だか耐えられなくて、絶叫してしまいたくなる。
「海と空のピアノ」は短編集だが、その点の無気味さ、わけのわからなさは十分で、なかなか楽しめた。私は母がファンだった歌手の三浦洸一の故郷である、三浦三崎が舞台になっているマグロ漁師の話が、母のことを思い出してなつかしいせいもあったのか、一番好きで浮かれて読んだが、他のも悪くなかった。ただ、わけのわからなさが最後の話に近づくにつれ、じわっとエスカレートして来て、さすがについていけないというか、頭のねじがゆるみはじめたが、それもまた愉快だった。まあ、あの作風が全部同じように続いたら、それはそれで退屈になるだろうから、エスカレートするのもやむをえないのかもしれないと、ぐちゃぐちゃになった頭の隅で考えたりした。ともあれ、カフカの小説を読んだときにも似た、脳みそや神経をもみほぐされるような、変な快感はたっぷり味わったから、不満はない。

いつもハガキを出しまくっている友人が、さっぱりメールをよこさないから、ちょっと気になって電話してみたら、連絡がとれない。海外旅行にでも出かけたのかもしれないし、事故か病気で入院したか、ひょっと死んだのかもしれないと思うが、確かめるすべがない。どうしようかな。

彼女はわりとまじめにNHKの大河ドラマを見る人で、私はとっくに見なくなっているのだが、今年は明智光秀で、これまた「ぬれぎぬと文学」の授業に関係ないこともないので、見ておかなくてはならないかもと、先日第一回を見た。
十年ほども前だったか、久しぶりに見た時に、最初のタイトル紹介の映像がCGを駆使して昔とは比べ物にならず豪華で凝っているのにびっくりして、文明の進歩は恐ろしいみたいなことを感じたものだが、今回はその逆に、最初の明智の庄の田園風景が、CGっぽくて軽くて薄っぺらで見ていて辛かった。あの風景は私の故郷などでは、今もほぼあのまま残っているので、なおのこと、その嘘っぽさが目について終始疲れた。
主役の彼は整った顔立ちなのに妙に特徴がなく印象が残らないのは、光秀という人物のわかりにくさを表現するのに、これはこれでよいかもしれないと思って見ていた。信長と光秀という、江戸の歌舞伎や大衆小説ではいやというほどいろいろ語られた人間関係を、どのように描くのか、難しいところではある。変に無難にまとめようとして、中途半端にならなければいいが。

いつも夜にはわが家の上の空に、どん!という感じでかかっている、オリオン座のベテルギウス星が消えるか、すでに消えているかで、星座もこわれてしまうかもしれないそうな。昔、私が無茶をして軽自動車で日本全国を走り回り、どこかの山道や野原で車をとめて寝て夜を明かしたりしていたころ、見渡す限り真っ黒な地平線の方に大きく横たわっていた、この星座のことを思い出す。見知らぬ町を夜中に通り過ぎるときも、よく頭上にかかっていたっけ。
私の星座はさそり座で、オリオンは天敵だ。というか、オリオンに射殺されたのがトラウマで、オリオンが沈むまではさそりは出て来ないはずだ。そういうこともあって、何となく気にかかる星座だった。明日からは雨らしいから、今夜あたり、ちゃんと見ておくか。

裏の崖の擁壁、一番よくとれている写真をアップし忘れていたので、お見せしておきますね。

Twitter Facebook
カツジ猫