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レジ袋(2)

このホームページでもまるごと本を紹介してる「私のために戦うな」を私が書いて出版したのは、還暦記念の自費出版だったから、もう十三年前になる。しかし、考えようでは、まだ十三年、たった十三年前かという気もするのは、たしかあれを私が書いた時期には、多分コンビニも少なかったし終夜営業でもなかったし、スーパーでもデパ地下でも、今のようなおかずのパックは全然売られていなかった。

いやまさか、そんなことはなかろう、とこの私でさえ思う。実際まちがってるかもしれない。でもいややっぱり、絶対まちがっていないと思うのは、あの本で私は相当ぐたぐたと、男女の役割分担や性差について考察し、それはただもう、ほとんど自分の体験と心理と嗜好をさらけだして白日にさらして切り刻むことでしか材料がなかった時代の、決死の必死の分析だったわけで、ひょっとしたら文学的価値は別として、三島由紀夫が「仮面の告白」を書いたときも、こうだったのじゃなかろうかと思うほどのエネルギーを費やした。まあそのおかげで、それまで生きて来た間ずっと、抱え込んで来たものを、すっぱり整理し、脱ぎ捨てられた気もしている。

少し以前に学校の先生方が、私の講演の予習をするためか何かに、あの本を読んで意見や批判を言い合って勉強したと聞いたとき、私はありがたいとか思う前に、あーだから教師って大嫌い、ほとほと恥知らずの無神経の鉄面皮なやつばっかりだとあらためて確信した。あんな本は、私に言わせれば、暗い部屋で一人でひっそり、息をひそめて読んで向き合い、自分の中に問いかけるものだ。それを集団で読んで意見を交換できるような人間は、もうそれだけで、私はそんなことをした誰一人、絶対死ぬまで信用しない。
あれはそれほど、危険で恥知らずな本である。私の陰部を集団でのぞきこむ勇気があるならいざ知らず、そんな覚悟もないままに、いわば人の人生と精神を集団レイプして恥ずかしいとも思わないのが教師なんだよねえ。まあ考えたら、学校の国語の時間の文学の授業なんて全部そうなんだから、今さら驚くまでもないか。

私も悪いのだよね。そういう猥褻で危険な秘部を、何でもないような書き方で書くから、近づいても触ってもいいように大抵の人はまちがえてしまう。そして自分が、どんなにみっともない、おぞましいことをしているのかさえ気づかない。
皆の前で語り合えることなんて、しょせん大したことじゃないのさ。数を頼んで、無難なことを言って自分の健全さ(本当は不健全さ)を皆で確認してるだけさ。そんなことしてる限り、人間は死ぬまで自分とも他者とも、きちんと向き合えはしない。

おや、また長くなりそうだから、この話はそこまでに。
私はあれを書いたころ、自分のそういう心の底の性癖や嗜好を目を閉じてずるずる引き出して手探りしたりする作業の一方で、男女が置かれた社会的な状況を、自分の思考を振りしぼって、あれこれ分析しつづけていた。
その中の一つで、強烈にまとまって行った核の一つが、「男の仕事は、社会的なシステムで置き換えられて来ているけど、女のそれはまだそうなっていない」ということだった。

つまり男と女の役割分担とかいうけど、太古の昔からそれがあったとして、洞窟の外の獣と戦うとか、獲物をとらえて殺して解体して皮をはぐとか、木を切って家を建てるとか、男に普通、女より多く備わっている腕力や筋力を必要とする仕事は、軍隊とか警察とか大工とか食肉業とかの専門家がやるようになっていて、大部分の男は毎日そういうことはしない。彼らがしている営業とか政治とか書類作成とか芸術活動とかそういうことは皆、特に男でなくてもできることだけである。人間ならできる仕事である。それを男だけがするようになっている。だって狩猟も防衛も家つくりも食料確保も、専門家がいるから男はしなくていいもんね。人間ならできる仕事しか、することはないもんね。

一方、女の仕事の方は、まあ裁縫は服飾業の専門家にまかせられるようになってるけど、圧倒的に専門職にゆだねられずに残されているのは日々の食事だ。これがもし、ごはんもおかずも、店で買ったのをそのまま食べられるようになれば、かなり状況は異なって来る。掃除も洗濯もそうだが、そのような家事が、商品として売られ、売買されるようになれば、そこでやっと、女が太古の昔からしていた仕事が、男のそれと同様に商品化され専門化され、なくなって、女もすることがなくなって、男と同じに人間ならできる仕事をする余地が生まれる。私はそれを痛烈に感じた。そのころ、パック入りのおかずとかは多分ほとんどなくて、私はそれが生まれたら増えたら、状況はものすごく決定的に変化するのだがと、ほとんど焼けつくような強さで夢見た。

この十数年、たった十数年で、それはほぼ完璧なまでに実現した。だからと言って男女の役割分担や男女のおかれている立場が完璧に変化したとは、まだとても言えないけれど、でも、男も女も、毎日デパ地下やスーパーやコンビニに行けば、おふくろの味と言われるようなものも含めて、大抵の料理は必要なだけの少量が手に入るという事態は、ものすごく男女のあり方を、家庭や社会のあり方を変化させる底力になったと私は思う。少なくとも、そこには、家を作ったり、獲物を解体したりする仕事と同様に、個人がしていた仕事が社会の商品となって提供されるようになったという、画期的な変化がある。

レジ袋やビニール袋が必要な、汁がもれそうなおかず類が、パックで売り場に並ぶようになった文化は、実は男女の役割分担を大きく変化させる流れの中の、重要な要素である。これが後退することはもはやないだろう。それを評価した上で、「汁がもれない」おかずパックのあり方を、メーカーや店舗は考えてほしいし、私たちもそれを求めて行くべきだろう。

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カツジ猫