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一仕事終って

少し寛いで居る所です。
先日母の見舞に行きましたら、矢張り自宅に帰りたいのか苛立って居て、「貴女は私を殺そうとして居る」と息まきました。(笑)
認知症も可也進行して居る様なので、何処まで理解出来るか怪しいとは思いましたが、「私こそ限界で、此の儘では貴女に殺される。其れでは互いに困ると思うから自分が倒れない様に気を付けて居るだけ」「貴女は私が疲れるとか傷付くとか苦しむとか全く考えないで、幾ら使っても減る事は無いと思って居る様だけれど其れは間違いだ」と申しました。
すると、「私の60代は一番体調も良くて元気だった(貴女も其れ程疲れる筈が無い)」と申します。

対話が一応成り立つのは有難いと感謝しながら、「片道3時間かけて毎週仕事場と家を往復する様な事は貴女はして居なかった。責任を持って給料を貰う仕事もしては居なかった。其の他色々全く比較にならない」「貴女は大事な人だしずっと元気で居て欲しいけれど、其の為にも私が倒れる訳には行かない」と言いました。
しかし、兎も角帰宅させて何とかしようと、ケアマネージャーとも相談して退院の予定を決めて居た矢先、母は夜中に歩き出して転倒し、骨折はしないで済んだ物の、痛みが残ってしばらく又退院は延期になりました。

昨日仕事の前に病院に寄ったら母は「貴女と話して誤解が解けた。行き違いが有ったのが分かって良かった。退院が延びて残念」と明るい顔で話して居て、随分安心したし、久し振りに何時からこんな気分になったか覚えて居ない程心から幸福に成って気が軽く成りました。
ですが、今日仕事の後で見舞った所、又言う事が少しとりとめなく成った様でも有り、あの明るさは私を仕事に心置きなく出掛けさせる母の最後の贈り物だったかとも不図思った事です。何時か山道で見た幾つもの虹の様な、ひとときの、最後の幻だったのかも知れません。其の時の明るい母と、其れによってもたらされた幸福感を私が忘れる事は決して無いでしょう。其れが嬉しくも、有難くもあります。
いずれにせよ、打ち身の痛みが取れる迄は母は退院出来ないので、其の先は又考える事にします。

在宅は無理ではないか、私が倒れるのではないか、ずっと入院させた方が良いのではないかと病院の方々は心配して下さるのですが、私は寧ろ母(そして私)が此の様な状態に有ると周囲に分かって頂けただけでほっとして居ます。
母は地域でも病院でも知人や友人が多く人気者で、言う事もする事も一見しっかりして居ましたので、誰もが「御元気ですよ」「昔の侭ですよ」「少しも御変りにならない」と願望や励ましも込めて私に言うのが此の数年間、何よりも私を苛立たせ半狂乱にして居ました。

私は母が日時が分からなく成り、リモコンが使えなく成り、次々に少しづつ確実に変化して行くのを日々の生活の中で手に触れる確実さで感じて来ましたし、其れでも母の性格や本質には変化が無いのも知って居ましたから慌ても悲しみもしませんでした。けれども、病院や介護施設の方までも周囲の皆がそんな母の変化を認め様とせず、「全然御変りにならない」と繰り返すのが、耐えられない程苦痛で孤独でした。
其れだけなら私の気持だけで済みますが、そんな御近所の噂や医療関係の方々の見解が介護認定にも影響して介護度の切り下げや取り消しに繋がったら経済的にもどうしたら良いのだろうと思うだけで、夜も眠れない事が有りました。

母が今後どうなるかは分かりませんし、私に何が出来るかも分かりませんが、其れは覚悟もして居ますし例えどういう結果になっても、母も自分も私は愛せるし許せます。
けれど、こうなったから安心して言えますが(笑)、此れ迄本当に無責任に第三者の気軽さで母を「御変りなく元気」と言い続けた方々を私はどれだけ憎んだでしょう。「昔の様では有りません」「私の事や其の他の事でも全く事実と違った事を言いますから、どうぞ鵜呑みになさらないで」「色々な手続きや連絡や交渉はどうか全部私を通して」と、どれだけ訴えても「ちっとも変っていらっしゃいませんよ」「しっかりして居られますよ」と繰り返し続けた方々を今も私は憎んで居るし許せそうに有りません。其れがどれだけ、介護をして居る者を追い詰めて絶望的な思いにさせるか、想像しては頂けないでしょう。

此れからが大変なのかも知れませんが私はそうは思えません。母の状態は私はとっくに知って居ました。周囲の認識が漸く私に追い付いただけで気が楽です。何を今更慌てて居るのかと鼻で笑いたい程の心境です。(笑)

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カツジ猫