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七夕の窓

ゆうべは、織姫と彦星が会えたかどうかびみょーなお天気ではあったが、一応は雨はやんでたから、デートはできたんだろう。
 ともあれ、窓べのディスプレイは、何とかいつものように。
 お天気が悪かった分、窓ガラスに景色の照り返しがなくて、写真が例年になくきれいに撮れたのは、怪我の功名ってやつかいな。

フィッツジェラルド「若者はみな悲しい」を読み上げる。夫婦間のいざこざや、男性の出世志向や女性の家庭での不満、現実と理想と夢の入り交じる日常生活が、まるで日本の現代とちっとも変わらないほど古びていないのに、何だかギリシャ神話やトロイ戦争の人物像や人間関係が今とまるで変わらないのに、愉快とも衝撃ともつかない感慨を持つ。

人間はここまで変わらないものか。そして、それなのに、ある時代や地域に吹き溜まりのように不幸や無能がかたまってしまうのか、何だか不思議だ。

それとは別に、美しい男女や少年少女の輝くような華麗な描写、映画の一場面のような華やかさ。人生のほこりっぽい現実をつきつけるサマセット・モームばりの技術や皮肉っぽさもあるけれど、モームとはまたちがう、鋭いとんがった新しさもある。どっちもいいけど。

少し前にとちくるって、作者の妻のゼルダの作品や、その悲惨でもある生涯をいろいろ読んだものだから、その関係も不愉快ではなく透けて見え、そして、ゼルダは女性作家としてたしかに夫に食い尽くされるというか下積みにされるというか、不満な一生だったろうが、彼女の存在と夫との戦い、夫への侵食は、ちゃんと夫の作品の中に生かされているなというか、それがなかったらずいぶん質が落ちるだろうなという実感もまざまざと味わった。

それに同世代のリング・ラードナーの「アリバイ・アイク」をはじめとした諸作も私は好きで、テキストに引用もしたし、彼の作品の楽しさや明るさとともにときに見える残酷さや暗さも知っているので、その時代や世界と重ね合わせると、幻想かもしれないが、当時のアメリカというひとつの世界が浮かび上がるようで、それもどきどき楽しかった。

特に「アリバイ・アイク」では、この作者の他の作品と同様、さらさらスケッチのように書き流される大リーグ選手アイクの人生や、ほおえましい恋が、フィッツジェラルドのきらびやかな小説で、色付けされ肉付けされて行くようで、あー、アイクと彼女もこんな風景の中で、こんな会話や交際をしたんだろうなと細部を勝手に妄想するのも愉快だった。
 いろんな本を読んでいると、邪道かもしれないが、こうやって重ね合わせて勝手に自分の二次創作をあっちこっちで楽しめるのが、こたえられない♫

世の中も家の中も仕事も私の頭の中も、もうどこから手を付けたらいいのかまったくわからない、ごちゃごちゃぶりだが、適当に気分にのって、とにかくできるところから、ぼちぼちやって行くしかないかなあと、腹をくくっている。何となく、傾いて行くタイタニックの甲板で積み木ごっこをしてる気もしないじゃないが、知ったことかね。

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カツジ猫