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中野三敏先生の思い出

菱岡憲司氏の著作の紹介のとき、中野先生に以前いただいた書評をちょっと引用したりしたので、その参考になればとも思って、去年出た追悼文集に寄せた、私の中野先生との思い出を紹介しておきたい。赤線の部分が菱岡氏の本の批評(第五回の冒頭。あ、まだ公開してなかったか。今日中には何とか)でふれた部分です。

バナナや猫やコーヒーや

東京に行かれてからはずっとお会いする機会がなかったせいで、私はいまだに中野先生がもうどこにもおられないのだということが実感できない。最後に福岡でご自宅におうかがいしたときは、ちょうどあたりの家々が工事で壊されてなくなっていて、見通しがよい分まったく異なる風景の中、道に迷ってうろうろしてたどりついた帰り、先生は玄関の外まで出て見送って下さった。一区画ほど離れてから振り返ると、周囲ががらんとして高台になったお宅の前で先生はまだ立ってこちらを見ておられ、手を振って道を教えて下さった。

お声を聞いたのは、それが最後だった。その後体調を崩されてお話ができなくなったようだが、それでも私はその実感もなく、お見かけした様子も昔と同じだっただけに、いつでも何でもお話ができる気でいた。喪失感より存在感の方が圧倒的に大きい。これからまだまだ対話を重ね、学び導いていただいて成長できる日々が目の前にのびているという気がするから我ながらいい気なものだ。

それはきっと研究者としての先生の偉大さや豊かさを、私がまだ全然わかっていないからだろう。このままで終わってなるものかという気持ちが、そんな実感を生むのだろう。

もちろん授業は受けた。先生が九大に来られてまもなく白石良夫くんといっしょに演習を担当して、おそろしく深読みしすぎの見当違いの解釈をいっしょに得々として開陳して、先生から呆れられたり、卒業生の先輩たちとの研究会で古文書の一文字がどうしても読めず、「麦」としか見えないけど、と言い合っていたとき、先生が「でも麦と言ったら秋だからねえ」とおっしゃって、橘さんや石川さんの先輩諸氏が「え?は、は、春では」と遠慮がちに言うと先生が「あはは、そうかそうか」と笑われて、一気に解決したり、要するに若く新進気鋭の新任の先生をお迎えして、たがいに緊張したり行き違ったりしながら、信頼やら親愛やらを育てて行った。中野先生はそんな中で気遣いもされていたはずだが、いつものんびりと無邪気でいらした。

研究室の院生たちにはミーハーな傾向もあって、「今度来る先生はおしゃれでカッコいい」という噂も先行し、三つ揃いのスーツを着こなす一方、ジーンズもはきこなすお姿を皆、賞賛と興味を持って観察した。ジーンズについては「はいて来てもいいもんかね」と前もって何度か言われた気もするから、それなりにリサーチはしておられたのだろう。書庫で本をさがしながら「ゴッドファーザー」のテーマ曲を口ずさんでおられたのを聞いて「さすが」と感心し、助手の福井迪子さんは「今井先生だったら口ずさまれるのは『月月火水木金金』ですよね」とまで評した。宴席でそれを知った今井源衛先生は「僕はちゃんとゴッドファーザーの映画は見た」と抗議され、中野先生は「実は見てないんですよ」としれっと告白されて、一同大いに盛り上がった。

そもそも中野先生のかっこよさを院生たちに宣伝したのは多分今井先生だったし、そうやって中野先生の引き立て役に回るのを喜んでおられた節もある。折から学園紛争のさなかでもあり、いろいろと予測できない事態が起こる中、お二人の先生は信頼し協力しあっておられた。その後の学内のいろんな事件で今井先生とどうしても意見が一致できないとき、中野先生は率直に今井先生と議論されていたようだが、「どうしても、その点になるとわかってもらえない」と私たちに話しながら、とても悲しそうだった。

今井先生や近世の卒業生諸先輩のおおらかさや親切さに対して中野先生はしばしば感謝を口にしておられたが、やはり気遣いはされていたろうし、そもそも何より私たち古参の院生に遠慮されていたかもしれない。私たちが卒業するときに先生は「前からいた工藤(重矩)くんや板坂さんがやっと出て行って下さる」とあいさつされて、「そんなに私らが恐かったんかい」と私たちは反省した。たしかに私はまったく何の疑問もなく「少し時間をとってしっかり勉強したいので、しばらく先生の演習への出席はやめます」などと申し出て「それはいいね」とすんなり了承して下さった先生の心の広さにも気づかないほど無神経な院生だったが、別にまったく先生の学問や研究や指導に不満があったわけではない。ただ、中村幸彦先生にしろ中野先生にしろ、圧倒的な学問の実態をうすらぼんやり感じた時点で、私はそれをむしゃぶりつくそうと思う前に、まずは自分のお粗末な知識と思考を整理してからでないと、先生方の偉大さもわからないと思い、自分を無にして飛び込んで染まる決意がいつもつかない。それを理解し、受け入れて下さる先生たちに恵まれたのは幸運で幸福だったが、だからこそ、今になってまだこれから中野先生に学ぼうなどとおのれの余命も忘れたことを考えざるを得なくもなる。

九大に来られて間もないころ、何かの食事の席で今井先生が私のことを「頭はいいと思うんだが(人をほめたい時に、今井先生は「よく本を読んで勉強している」か「頭がいい」かのどっちかを使われるので、あまり勉強していない私は後者になったのだろう)、もうちょっといろいろしぼった方がいいんじゃないか」と言われたのに対し、中野先生が「いや、しぼる必要はない、今のままでいいんじゃないでしょうか」とおっしゃったと人づてに聞いた。私はそれで「このままでいいんだ」と安心し、国文学と関係ない方面の読書や趣味のいろいろに走って、中野先生の学問を受け止めたり理解したりすることになかなか集中できなかった。

それでも先生は全然気になさる風もなく、私と雑談を楽しまれ、当時は「ネタばれ」のタブーもなかったので、見た映画の内容についてあらすじや見どころを教えあった。私が徹夜明けのふらふらで研究室におじゃまして、「今から町に行って映画を見たいけど、絶対に寝てしまう」とぼやくと、「『コックと泥棒、その妻と愛人』ていうのが面白かったぜ」とそそのかされ、私はそれを見に行ってたしかに寝なかったが、その濃厚なグロさに圧倒され、よくもあんなものを勧めましたねと後で抗議すると、やったねというようににやにや喜んでおられた。

もちろん、論文に関する資料その他についても、惜しみなく指導していただいた。どんな人物についてもすぐに詳しい珍しい文献や論文を紹介して下さる、そのありがたさを私はあたりまえのことと思って、驚いてもいなかったから世話はない。私が先生の学問の高さも深さも理解していなかったのと比べるのは恐れ多すぎるが、先生もまた私の論文や研究の方向について完全におわかりではなかったのかもしれないと思うときがある。それでも、ご自分の理解や指導の枠内にはめようとは全然なさらず、目に余るまちがいは指摘されても、基本的にはいつも信じて下さって、出版社への紹介や拙著の紹介文などではしっかりほめちぎって下さった。でも就職の際の推薦文を私の前で「よくできてるだろう」とうれしそうに読み上げて下さった中でも「ごらんのように身体もきわめて健康で」などと、ちょっとおちょくったような部分がいつもどこかにあって、私はそれがとても好きだった。

中野先生は泉鏡花がお好きだったようだし、テレビのCMでもちょっと無気味な感じのものを「あれいいね」と喜んでおられた。もしかしたら私のこともそれと似て得体のしれない部分を面白がっておられたのかもしれない。とんでもない猥談も日常的に交わしたし、講演会に大遅刻したり、入試監督の休憩時間に他の先生と蕎麦か何かを遠くまで食べに行って試験時間に間に合わず、責任者の西洋史の教授から皆の前で怒られまくったりした話もあまり反省の色もなく「〇〇先生がさ、僕らをどなりつけながら、にぎりしめたこぶしが怒りでぶるぶる震えてやんの」と教えて下さったりした。私の方も、コーヒーに目がなかった先生の誕生日に他の院生とどでかいコーヒーカップを贈って「あ、おまるだ」と感心されたり、田舎の家から先生が探しておられたバナナの苗だの子猫だのを持って行ってさしあげたり、恐れを知らぬことばかりしていた。

先生は私の博士号の審査のとき、まだ審理中なのに「決まったよ」と教えて下さって、後で「ごめん、まだ審理がおわってないんだって」とけろっと訂正されてさすがの私も動転させるなど、権威にも規則にもこだわられなかったし、大学改革が激しくなったころには、文科省の現場を知らない方針に文句を言う私たちに「なんでそんな方針に従って、言うことを聞くんだい」とふしぎそうにしておられた。でもその一方で、ときどき著書を出版社から送らせるのは相手によっては失礼だとか、献本を受けとったらとりあえずすぐに返事を書くようにとか、日常的な常識をまじめに注意して下さることもあった。私が九州をはなれて遠くの大学に就職するときには、そこでの同僚になる方々について「このお二人は絶対に信頼できるから何でも相談したらいいよ」「この先生はいろいろ難しいから対応には気をつけて」などと教えて下さった。だのに私はその注意するように言われた先生のお名前を忘れてしまい、まあ会えばわかるだろうさとたかをくくって就職し、十数人の講座の中からお二人のどちらかだろうなというところまでは見当をつけたが、結局どっちか決められないまま、またそこから九州の大学に戻ってしまったのだった。

中野先生ご本人は外見も中味もまったく変わっておられなかったが、バナナと猫は大きくなり、九大では若いすぐれた院生たちが先生を尊敬してうやうやしくと言っていいほどの雰囲気で、ああ先生は安定した環境を作られているなあと実感した。その後のご活躍については、その若い人たちが語るだろう。厳しく繊細であると同時に大胆で人なつこく、思わず何かしてさしあげたい心境にこちらをならせる、先生独特のあの不思議な魅力についても。

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カツジ猫