九条の会ちらし・8月分
(いずれ「九条の会」のコーナーに移しますが、八月六日に、こちらにアップしておきます。これは「九条の会」のちらしの原稿で、九日の夕方にJRの東郷駅で配布する予定です。)
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「さくら隊」を知っていますか?
「さくら隊」という劇団のことをごぞんじでしょうか。
新藤兼人監督の映画「さくら隊散る」や、井上ひさしの戯曲「紙屋町さくらホテル」を見られた方は、「ああ、あれ…」と思い出されるかもしれませんが、聞いたことがないという人も多いでしょう。
では、宗像にも近い小倉を舞台に、車引き松五郎が陸軍大尉の未亡人にひそかな片思いをする「無法松の一生」の戦前の映画で、阪東妻三郎の松五郎と共演した未亡人役の女優園井恵子はどうでしょう? と言っても昔のこと、大正生まれの私の母が「本当にきれいな人だった」とくり返していた宝塚出身のこの女優さんの優雅で清らかなたたずまいは、私も写真でしか知りません。
園井恵子は、当時の名優だった丸山定夫を中心とした「さくら隊」という劇団に加わって、広島で公演中の八月六日、原爆にあいます。一気に倒壊して炎上した建物の中で、女優五人が焼け死にます。その一人は「無法松の一生」で、未亡人の幼い息子役だった高山禾門(彼は戦後も長く俳優を続ける)の妻でした。丸山定夫は負傷しながら逃げ延びて、「生きながら炎に迫られたら地獄だったろう」と、女優たちの最期を嘆きつつ、自らも苦しみながら亡くなります。
園井恵子は演出家志望の若者高山象三と二人で奇跡的に傷ひとつなく、神戸の宝塚時代のファンの家にたどり着きますが、まもなく高熱と下血をくり返してともに凄惨な死をとげます。同じく無傷で東京に戻った仲みどりも、病院で同じような最期を迎え、さくら隊は全滅しました。
メンバーの一人で、たまたま広島を離れていて無事だった八田元夫は、丸山をさがしあて、園井と高山にも会って、三人のすさまじい最期を看取ります。その記録「ガンマ線の臨終」という小冊子をはじめ、彼の演劇活動の膨大な記録はひっそりと早稲田大学の図書館に保存されていました。最近出た堀川恵子「戦禍に生きた演劇人たち」(講談社)は、その資料をもとに、戦時下の激しい弾圧の中、彼らがどんなに悩み迷い、演劇に魂を捧げていたかを、描き出しています。
「本書を読了、我慢できずに『青春18きっぷ』を使い広島を訪問してきました」という若い人らしい感想も、ネットにはありました。
戦時下で、俳優たちは舞台の上で逮捕され、脚本家は警察署で拷問されました。その口実となった治安維持法は、司法大臣が国会で「無辜の民にまで及ぼすというごときことのないように十分研究考慮いたしました」と述べて成立したと、この本は述べます。今、共謀罪がまだそうなっていないのは、再びこのような時代をくり返すまいと思う、すべての人たちの力です。八月の熱波の中、苦しみぬいて死んだ人たちの多くの思いを、忘れまいとする私たちの心です。