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人の上に立つのなら。

◇今日は本当は大学の研究会に行かなくてはならなかったのだが、なーんとなく風邪気味なので大事をとることにして、ジムも休んで体力を温存した。とは言え、非常勤先のシラバスをそろそろ書こうと思ったら、システムに入るパスワードが見つからず、いちかばちかと大学に飛んで行ったら、土曜なのに入学手続きで事務の人たちが出て来ていて、パスワードを教えてもらえた。

私は何かあると、すぐに最悪のことを考えて対応しすぎるので、その前に担当の先生にもメールで問い合わせ、更にその先生の電話番号を教えてくれと別の先生二人に電話とメールで泣きつき、さんざん人騒がせをした。皆さん死ぬほど親切に対応して下さって、私はすっかり恐縮し、こんなことでは皆いい人すぎて、その内滅びてしまいはせぬかと、ものすごく理不尽な心配をした。

◇もっともねえ、おかげでシラバスは一応無事に書きこめたのだが、その作成要領が年々煩瑣に膨大になって行く様子が、入試の監督要領が次第に電話帳なみにぶ厚くなって行ったのと似すぎていて笑えない。成績判定基準についても、「出席点は10点」とは書かないで、「授業における参加・発言等の貢献度、10%」のように、「出席自体に意味があるのではなく、授業に参加するという観点からの評価をお願いします」とか書かれると、あー、どなたがお書きになったか知らないが、もう授業とか教育とかいうものの考え方が、私とスタート以前からちがってるようだと、愕然とする。

まあこれは今にはじまったことではない。
私は学生の教育実習の参観で、付属学校に出かけて、そこの先生方つまり教育のプロ中のプロと、学生指導の勉強会などに出ているとき、たとえば「このクラスでは、この子とこの子がよくできて積極的だから、この子たちに発言してもらって授業をリードしてもらって」などと指導がされるたびに、「えっ、授業料もらっている生徒に、教師の助手をさせて、ただ働きさせるんか」とか「いくら落ちぶれても私は教師として教壇に立った以上は、生徒全員を敵に回す孤独な支配者であるぐらいの覚悟はしてるし、生徒に助けてもらって授業するぐらいなら舌かんで死ぬわい」とか思ったりしていた。ときどき、ちらとそういう発言をしたこともあるが、幸いぶっとびすぎていたからか、誰も意味がよくわからなかったようで、スルーされた。されなかったら無事じゃすまなかったろうから、その方がいいのだが。

多分それは私が小学校時代に優等生で、わかっていることに「ハイハイ」と夢中で手を上げていたら、先生から「もうちょっと待ってね」みたいに微笑まれて、だんだん何となく、「ここで授業を成功させるには、いつ私は手を上げたらいいのかな」とか、勝手に自然に先生の側のスタッフの一員みたいな立ち位置になってしまった記憶があるからだと思う。それが高じて、私のための授業じゃないのだといつからか思いはじめ、まったく授業に参加しなくなり、もはやそんなに優等生でなくなっても、授業で何かを学ぶと言うことが完全にできなくなったのが、我ながらまずいと自覚しているからだろう。

もしあれがもっと徹底して「先生の助手」として使われることに誇りと悦びを感じさせられるようになっていたらどうなったのかとか、あるいは自分と同じ程度の優等生の中で切磋琢磨していたらどうだったのかとか思ってみると、どちらもあんまりぞっとしないし、いい結果を生んだようにも思えないので、それはそれでいいのだが、ただ、それにしても、かたちだけでも、私はどんな優等生でも、教師である私の前ではただの、一介の生徒にすぎないという姿勢は守りたいし、譲りたくない。結果として、その学生の発言が授業を活気づけ成功させたとしても、そんなことで評価するのは大いなるまちがいだと思う。何かがどこかで、ものすごく、行き違って、ねじ曲がった発想としか思えない。そんな評価も、教育も。

帝王や大統領や指揮官は皆、孤独だし、部下はあくまで部下である。教育者だってそうだ。
どうも私は、今の首相が、あまりにも勘違いすぎる「私だって悪口は言われてる」とか、膨大な権力を持ち、それをしらっと利用もしながら、一方で一般人や弱者のために設けられた論理や感覚をぬけぬけと使うのが一番目障りなのだが、首相批判がヘイトスピーチだなぞと寝言をぬかすのや、スラップ訴訟などと同様、こういう、権力者が弱者のためのものを使い倒す感覚は、こういうおかしな「学生を授業の助手にして恥じない」感覚とみごとに一致しているように思えてしかたがないのだけどね。

◇そんなことに、こだわりはじめたらきりがないが、とにかく、シラバス記入要領をながめていると、いろんな問題が起こるたびに、マニュアルですべて対処しようという、そもそも無理な熱意がかいまみえて、ため息をついてしまう。「猫を洗濯機で洗ってはいけません」という使用説明書のたぐいだ。
まあ、中野三敏先生の「師恩」という本を読んでいると「もう時効だからいいと思うが」と断って、入試の合格者の名前を書いた紙を机の上に重ねておいたら、風で戸外に飛んでしまって、先生方は大わらわで拾い集めたが結局結果は適当に発表するしかなく、でもトップの教授は「いざという時はわしがやめればすむことじゃ」と泰然としていた、そして事実無事にすんだ、とかいうものすごい話が紹介されていたりするから、私の感覚もそれにつられて、どっか変になってるのかもしれないが。

◇母の卒業した長崎の活水短大から、創立者の外国人女性のラッセル先生を中心に学校の歴史をふりかえったビデオが送ってきていたのを田舎の家で見つけたので、大枚4000円ほどをはたいてDVDにしてもらいました。母に見せたら喜んで、校舎の映像などを見て、「そうそう、この通りだった」と言っていました。

亡くなった祖母も、ここの出身で、一番最初の時代の人です。神近市子、中山マサなどのそうそうたる人たちといっしょに勉強したようです。その人たちの写真も映りましたが、回りにいた数人の少女の中に祖母もひょっとしたら、いたのかもしれません。
神近さんは政治家として活躍し、中山マサさんは、日本最初の女性の大臣でしたが、当時、医師会長の武見氏だったかが「女を厚生大臣にするとは」と怒りまくって会おうともせず、中山さんが泣いたと週刊誌に書いてあったのを、子どものころ読んだのを漠然と覚えています。今とはまたちがった、でも共通もする女性の苦労があったのだなと思います。
女学生のころの中山さんの写真は息をのむほど、明るくて知的できれいでりりしく、泣いたというのは週刊誌の書いた嘘かもし

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カツジ猫