今度こそ「カールじいさん」について。
「パーシー・ジャクソン」は面白いよーと人にすすめているんですが、ヘビが大きらいな人にはさすがにどうかなあ。ユマ・サーマンのメデューサは美しさといい色っぽさといい、もう最高ではありましたが。どっか少女っぽい清潔さと清々しさがあって、それっていかにもメデューサらしいと思うんですよねー。
などと言ってるヒマはないので、「カールじいさんの空飛ぶ家」の感想を。
まあ、これを見た人なら誰もが思うし、言うだろうけど、冒頭であれだけとことん暗い救いのない話を見せて、これが子ども向きか?とあきれるんですが、それ言うなら第一じいさんが主人公で子どもの話って、どうなんだろ、とも思うんですが、しかしよく考えたら、おとぎ話って洋の東西を問わず、じいさんやばあさんが主人公になること多いですよね、けっこう。語り手が年よりだったから、自然にそうなってたのかしら。「花咲じじい」「こぶとりじいさん」、皆そうだもんなー。
でも、自分が子どものころのこと思い出しても、冒頭のあの暗い悲惨さ、子どもは案外わからないのじゃないのかな。あれがわかるのは、大人や老人の方だと思う。
だいたい、最初の10分かそこらで、一気に人のほぼ一生を展開して終結して諸行無常にもちこむかねー(笑)。いっそもう、爽快だったけど。
以下はネタばれかそうなのかわからないけど、全編、面白くかわいく楽しく、でも、そのテーマはしっかりしていて正しいけど厳しい。
家にしろ思い出にしろ人生にしろ、大事で充実していればいるほど、逆にそれが重荷にもなる。それを大事にすることと、捨てることとの配分のむずかしさ。
信じていたもの、あこがれていたものさえも、もう死んでしまった人と共有していた偶像や理想さえも、ことと次第ではいつわりを見抜き、たたきつぶさなければならない。死にかけるまで年老いていても、人間には鮮烈な幻滅や新鮮な悩みや、新しい出発があるのです。
キャラママはかつて、「家」というテーマで授業をしたことがあるそうだけど、この映画もまた、そういう際の重要な資料になるでしょうね。家って何だろう。ある時は要塞、ある時はくびき。
宙に浮いた家をひきずって歩くという、あの苦行、あれはもう、家を管理し維持する世代には理解できすぎて泣けます。そして、思い出と愛したものをばっさり放棄して、再び家を飛翔させるあの場面は、最後に家が雲のかなたに飛んでいく時の静かな感動と並んで、でもまた別の、豪快な、身体と心がゆさぶられるような衝撃と快感です。カールじいさんと同様に、見ている者も、そうすることが正しいことがわかります。わかっていて、なお、おののくし、だからこそ歓喜がこみあげる。
信じてきたものを捨てること、それどころかそれと戦うこと。
愛してきたもの、そのために戦ってきたものを放棄して、新しい戦いをはじめること。そのことで昔、何かを信じ、愛した自分を再びとりもどすこと。
この映画はもちろん、深く複雑です。でもそれ以上に現実はもっと複雑で入り組んでいて、とてもこの映画のように単純ではない。それでも、この映画には、そういう複雑な状況を生き抜く基礎となる知恵と心がけがしっかりと示されています。何よりも、映像そのものを通して。恐ろしいほど、最高。
人間も動物も含めて、端役にいたるまで、かわいい美しいカッコいい生きものを登場させず、しかも魅力にあふれているのが、これまたすごい。
それにしても、あれだねー、「指輪物語」からこっち、何だか、「さがす、獲得する」じゃなくて、「捨てる」がクライマックスになりラストになる話って多いよな。時代といえば時代なのかもしれないが。