何がうれしいってあなた
台風のあと、めっきり涼しくなった。もう半袖では薄ら寒い。服の入れ替えをしないと。山のようなTシャツ、今年も全部着られなかったなあ。しくしく。
だけど何がうれしいって、この分じゃ月末は随分涼しくなるだろうから、かの27日には、叔母の遺してくれた、上等のまっ赤なカーディガンがちょうどいいあんばいに着られそうなことなのよね。若干冬っぽいけど、赤いベレーもかぶれるかもしれない。
そんなこと言って浮かれてたら、国葬反対の焼身自殺をした人が出たというニュースが入ってきて、胸が凍った。私と同じくらいの70代の男性らしい。よかれあしかれ、そういうことしそうな世代ではあるよなあ、と妙な感慨も生まれてしまう。
焼身自殺という死に方を初めて知ったのは、ベトナム戦争の少し前、南ベトナムでアメリカの傀儡政権ゴ・ジンジェム大統領の独裁に抗議して、僧侶たちがやっていたからだ。日本人にはなじみない方法で異様な印象だったけど、報道は、まっとうな抗議行動として紹介し、日本の「切腹」も外国人から見ると同じくらい異様で無気味なのだと解説していた。
たしか大統領夫人が、その僧侶たちを「人間バーベキュー」と揶揄してまた激しい抗議を生んだのじゃなかったっけ。
日本でもエスペラントの由比さんだっけが、焼身自殺で抗議して、それもちゃんとした抗議として扱われていたように思う。
それに比べると、少し前、戦争法だったかに抗議して焼身自殺した男性のことは、恐ろしいぐらい黙殺され無視され報道されず、いまだにその人の名前も私は知らない。
それに比べたら今度の方の行動はネットでニュースが散見されるから、少しはましなのだろうか。
こんな抗議の方法を私は応援しないけれど、人を傷つけようとするものではなく、テロとはまったく異なるし、ここまで思いつめる人を生み出してしまった、岸田首相はじめ政権をになう人たちの「やってしまえば皆、あとでよかったというさ」と言ってのける、恐ろしいほどの鉄面皮さの生む絶望感と無力感が、ただただ憎い。許せない。
去年のオリンピックもそうだが、「いやがっていても、やってしまえば快感になる、よかったと言うはず」って、たしかにそういうこともあるという事実もふくめて、これはレイプ犯の言い草や発想と、どこがちがうのか聞きたい。「なぐった子どもも、あとで『愛のムチ』に感謝する」という論理が横行していた体罰肯定時代の教育者の言い分もまたしかりだ。
私に言わせれば、人がいやがることを無理にして、それがあとで「やってくれてありがとう」と感謝されるというのは、成功でも勝利でもなく、失敗で敗北だ。そのように扱われることを肯定する感覚を相手に植えつけてしまったことは、とりかえしのつかない破壊で腐敗だ。
私自身、無神経なやつには無神経で対応しないと身が持たんと思うから、のほほんとしていようとしてるけど、プーチンのアホが、誰も戦争とさえ認めてないのに、あたりまえみたいに戦争を毎日してのけているのに煮えくり返るし、これだけ反対が増え支持率が落ちても、聞かぬふり知らぬふりでゾンビみたいに歩きつづける政権のお歴々を見るたびに、こっちが叫んでも声が届かず、姿も見てもらえないゾンビになったような果てしない深みに心が落ちて行く。国民の多くに大なり小なりこういう気分を味合わせる岸田首相たちは、物価高とか災害とかそういうこと以前に、その姿勢と態度だけで、もう国民を劣化させ、弱体化させ、国を滅ぼしにかかってる。わかってるのか。自覚があるのか。
いーや、そんな責任も罪悪感も岸田さんたちは、かけらも感じはしないのだろうな。
焼身自殺はしないけど、私は炎の色を着て、彼らに私の心を示す。これまでの人生、私はずっとどんなにささやかでも微力でも、できることをし、国を、世界を動かそうとしてきた。事実、動かしてきたという実感がある。私は時代と世界に身を寄せ、その動きに責任を感じ、いつもそれらと併走してきた。エリザベス女王と同じぐらいの意識は常に持って来た。敗北しても、敗北感はない。どんなに無名でも私は確実に時代と歴史と世界を動かしている。誰だって実際にはそうである。何もしてないこともふくめて、皆が何かをしているのだ。
はあ、庭のこととか、いろんなニュースがあるんだけど、長くなっちゃったから、またにする。