何てこと、何てバカ
今日は朝から早起きして、「午前十時の映画祭」の「ウェスト・サイド・ストーリー」を隣町まで見に行った。
映画の感想はまた書くが、久しぶりに遠出したので、ゆっくりレストランで食事して、昼過ぎに遠賀川に日があたっているきれいな風景を見ながら、黄色い車を走らせているとアフガニスタンで中村哲さんが銃撃されたというニュースが流れた。
命に別状はないということだったが、手術をした後、別の病院に搬送するとか、同行していた数人の人たちは皆その銃撃で死んだとかいう話を聞いて、何となくいやな予感がした。
そのあと、また買い物をして、暗くなって家に着く直前、またニュースが流れて、中村さんが死亡したと伝えた。思わず道の真ん中に車をとめて、しばらくじっとしていた。
中村さんの講演を一度聞いたことがある。本も何冊も読んだ。とにもかくにも行動し、世の中をよい方に前進させて行く、できそうでできないことを着々と続けている人がいることに、そういう人の行動を支えて、ついて行っている人がいることに、希望を持ち、力づけられ、自分の行動や生き方の、どこかでひとつの基準にしていた。
講演の中で中村さんは、当時、絶対悪だったタリバンについて、田舎の兄ちゃんたちのようなものだとある種の親愛をこめてさえ語っていた。自分のしていることの対極の方法で問題を解決しようとしている若者たちを、攻撃も批判もしなかった。彼らもやはり人間の顔を持った存在ということを、おのずと知らせるような話し方をしていた。
今回の銃撃に、タリバンは無関係だと声明を出しているという。イスラム国か、どのテロ組織か、銃撃の犯人はわからない。
中村さんの話を聞かなくても、私はテロ組織を悪魔とか怪物とかは思わない。むしろ今の日本では彼らを理解し同情もしている方だと思う。彼らにそうさせた強国や権力に、基本的な罪はあると考えている。
また、人の命は皆同じように尊くかけがえがなく、軽重などはないとも知っている。ああ、よくわかっている。
それでも、中村さんを死なせた、殺したテロ組織に対し、よりによってあなた方を世界に理解させてくれる、数少ない人に対して、何てことをしたのだ、何てバカなんだと、ただただもう、腹が立つ。情けなくて、悲しい。
私は自分が利口じゃないから、近親憎悪なんだろうが、悪いやつ以上にバカなやつが絶対に許せない。我慢できない。
今回の件もそうで、数少ない貴重な味方を銃撃してこの世から消した愚かさが、許しがたい。テロ組織が最終的には願い、祈っている世界の実現のためには中村さんのような人が必要だったのに。そこをめざして進んでいる人だったのに。
まるで、映画や小説にあるような、皮肉で、ひどい悲劇だ。
せめての救いは、私の母が生きていたら、こんな時に絶対言ったろうことばだ。「あの人は、したいことを最後までして死んだっちゃけん、何も思い残すことはなかろうよ」
いっしょに死んだ人たちもふくめて、いつも覚悟は決めていたろう。そして、特攻隊の若者とか、仲間どうしの抗争とか、やりきれないかたちで死んで行く者たちに比べれば、これは恵まれた死なのかもしれない。残された者たちが嘆くことさえ僭越な。そんなことをしている暇などないほどの。
白黒猫のマキといい、裏の崖の上の栗の樹といい、その他にも、二〇一九年は最後に近くなって、私にとってなじみ深い大切なものを、たてつづけに私から奪って行っている。
淋しくはないが、守ってくれていた、たくさんのものが去って、新しい世界が目の前に広がり、激しい風が直接、顔にあたりはじめたような感覚がある。
歩きつづけるしかない。どこまで行けるかはわからないけれど。