使い捨て雑巾
昨日予告した、テレビドラマの出産場面と、オリンピック報道についての話ですが。
私が子どものころだから、今からかれこれ50~60年前でしょうか。映画でもテレビドラマでも、そりゃもう実によくあったのが、家庭や社会で、いろいろ深刻な問題が起こって、登場人物各自の生き方や考え方が問われるような展開になって、どういう風な結論を出すんだろうと、かたずを呑んで見ていると、残り時間20分ぐらいで、いきなり出産場面になるんですよね。
女の人が髪ふりみだしてベッドでわめいてのたうって、他の人たちは皆それまでの確執も対立も忘れて、そわそわ心配して、そしておぎゃあおぎゃあと産声が聞こえて、無事に赤ちゃんが生まれて、皆それでほっとして笑ったり泣いたりして、すべての問題は水に流れて、めでたしめでたしでエンドロール。提起されていた問題は、何ひとつ解決しないまま。
この展開を何度見せられたことか。私くらいの年代の人なら、ちょっとは覚えがあるんじゃありません?
私は結婚も出産もしませんでしたけど、別にこんなドラマや映画を山ほど見せられたから、それでいやになったんじゃないですよ(笑)。むしろ、あれだけ適当な「またかよ解決」場面を浴びるほど見せられて、出産や誕生に対する不快感を抱かないでいられたという点では、自分に感心しています。今でも、いつでも、それは大切な、神聖なことだという気持ちにゆらぎも曇りもない。
ただ、それだからこそ、そういう大切で微妙で立派なことを、安っぽく便利に、あらゆる問題を解決して水に流してしまう、いとも便利なアイテムとして乱用するのが、すごくいやでした。どういうか、高級な美しい刺繍入りの布を、使い捨て雑巾や便所のブラシのように、やっかいで汚いものを、それですべて拭い去ってすませるのに使っているみたいで。
こんな描写や設定をくり返しているうちに、私の中でも世の中でも、出産とか誕生というものが、そういう「便所のブラシ」みたいなイメージを持たれてしまうんじゃないかなあと、いつも漠然と恐れていた。
今、オリンピックやメダルやアスリートの活躍の、報道のされ方、利用のされ方を見ていると、同じ気持ちで、やりきれない。
便所のブラシも、使い捨て雑巾も、それそのものは私は好きだし大切にするし、その役割には感謝するけどね、出産とかスポーツとかは、そういう風に使うもんじゃないんだよ。
まあもちろん、最近のドラマや映画の出産や誕生は、そんな描き方はされなくなっているけどね。それについては、また明日(シェラーザードか、わたくしは)。