個人情報
おっちょこちょいの私は、昔私をかわいがってくれた「とよべえ」の命日をまちがえて覚えていました。
本当は明日(もう今日か)、17日でした。
だもんで、今日(もう昨日か)はお供えの花やお菓子を買い足し、再度飾り直し。
ごめんね、とよべえ。でも最高に素敵な赤いバラが手に入ったから、これでよかったのかもね。
買ったまま、ずっと放っておいた古野まほろの文庫本『新任巡査』上下二冊を一気読み。作者は実際に警察にいた方とのことで、いやもう新任研修の巡査の生活の実態がこれでもかとばかり詳しくて、以前にナポレオン時代の英国海軍を描いた『マスター・アンド・コマンダー』の原作を読んだときのことをちょっと思い出しました。
そうしたら最後の数章で急転直下の怒涛の展開というか転回というか、おほー、これそんな話だったのかとまた目まいが(笑)。地味でリアルな現場報告物と思って読んでいた、すべての小道具や大道具が、いきなりSFチックなぐらいぶっとんだエンターテインメントになってて、まるでタイプのちがった小説に化けて(正体をあらわしたというべきか)いました。
面白かったんだけど、そこを話すとネタばれになるので、関係ないけど気になったことを。
主役の一人の見習い巡査はまじめな若者で、地域に溶け込む警察官をめざしています。それで先輩たちもそれぞれ熱心に指導してくれて、担当区域の見回りに連れて行く。そこで、地元の住民との交流ですが、家族構成やら何やらの個人情報を記したカードを各戸に書いてもらうよう頼むのですよ。これをまた、わりと普通に応じて書いちゃう家庭もそこそこあるのですよ。強制じゃないし、拒否する人も多いとは言え。
基本リアルな小説ですから、これも実態を反映してるのか、そうだとしたら、そういうことが法律でも認められて、普通にお巡りさんの仕事になってるのか、と思うと、すごく複雑な気分。はっきり言ってすごく恐い。いつの間にそんなことになってたんだろう。ウクライナが巨大原発だらけになってたと知った時と似た気分です。
しかし、作中で警察官たちが住民に説明するのも、何となくわかるんだよねえ。凶悪犯や異常者がこれだけ跋扈する世の中じゃ、たしかにこういうカードを書いてもらいたくなるのも無理がないし、住民としても安全でもあるような。
それでも私の身体のどこかに埋め込まれている危険察知装置が、けたたましく鳴るのよね。いくら担当の警察官がいい人で信頼できると言っても、いくら気をつけて保管しますと保障されても、そこまで個人情報を渡す気にはとてもなれない。国家権力が恐いというのもあるけれど、同時にご近所さんへも他者へも家族へも、自分のそういう情報は知らせたくない、渡したくない。
もっと言うなら、それ知ってるから把握してるからって私のことを、わかったつもりになんか、ちらとでもなってもらいたくない。
私は心の底から信頼してる友人知人にだって、基本的には自分の個人生活は見せていない。相手のも知ろうと思わない。(ブログでこんだけ私生活を公開しまくってて、何を今さら、とあきれる人はシロートです。昔から私は生徒としての教室でも大人になってからの授業でも喫茶店でも自宅でも、個人的なことをべらべらしゃべっているようで、肝心のことは何も話してないというのが特技でした。)
言いかえれば、そんなこと何も知らなくたって、相手のことは根本的に理解してるし、信じてる。それでひょっと裏切られて、とんでもないことになってもあきらめがつくぐらいに。
今、家族の古い手紙や日記を整理していると、祖父母や母や叔母たちの、まったく知らなかった部分が次々に現れて、万華鏡でも見ているかのようです。あれだけ身近に暮らして、何でも知っているつもりだった人たちが、まるで未知の存在のように、新鮮に輝いて立ち上がって来る。驚くけれど、衝撃じゃない。そういうことは、いつも覚悟していたし、予測もしていた。そういう風に家族や他者と私はつきあって来ました。
裏切られた、という言い方は嫌いです。信じてる、という言い方も好きじゃない。どっちも私は、多分使ったことがない…と思うけど(笑)。
だってそれは、自分の都合のいいように、自分が期待する通りに相手が動くことを信じてるってことでしかないでしょう。なめてますよね、いろいろと。
そう言えば、大学に勤めてるとき、私のもとで卒論指導をうけると決まった学生については、事務からその人に関するデータを記した一枚の書類が渡されていました。あれ、今もまだあるのかな。本人が提出したもので、住所氏名に自宅の地図、家族構成、家の職業、自覚している長所や短所などなどなど、個人情報の多くが書いてあります。それを把握しておくのが、それに基づいて指導するのが、指導教官の義務ということだったのでしょう。
自慢じゃないけど、私は毎年、自分のルーム(いわゆるゼミ)に来る十数人の学生の、その書類を一度も見たことがありません。もちろん、めくったり目を通したりしたことはありますよ。でも、じっくり読んだことは一度もないし、見ても何一つ覚えていませんでした。見るべきではないと思っていました。知るべきではないと思っていました。そんな情報を知らなければ相手を理解できないなんて、教師の資格はないと思っていました。
あんまりそれがあたりまえの感覚だったから、他の先生がどうなさっているのかさえ気にしたことはなかったけど、多分皆さんは、ていねいに読んでおられたのでしょう。中には上級生の学生たちと、新しい学生のその個人調査票をいっしょに読んで楽しんでおられるという先生の話も聞きましたが、それも別に何とも感じませんでした。そういう指導もあるだろうし、そういう先生もいらっしゃるでしょう。それが悪いとも思わなかった。
ただ私は絶対に見なかった。魅力的で優秀でどんな育ち方をしたらこうなるのだろうと思ったり、逆にどうしようもなく手こずって苦労したりする学生の、そういう個人情報こそは意地でも絶対見なかった。見たら負けだとさえ思った。それで何かをちらとでも納得したりしたならば、人間としておしまいだと思ってた。仮にそれを見て、その学生が大家族だとか片親だとか会社役員の親だとか犯罪歴があるとか受賞歴があるとか、不治の病にかかっているとか外国籍だとか宇宙人だとかわかったところで、それが彼ら彼女らを理解する上で何かの参考になるなんて私にはとても思えなかった。
地元のカルチャセンターでも長く深くつきあった地域の方々はいたけれど、いまだに私は、その方々の家族構成も学歴も職歴も国籍も何一つ知りません。たまたま知ることがあっても、気にとめなかった。そんなこと何も知らなくても、学生たちと同様に、どんな方かはよくわかったし、何の不安も不便もなかった。
お巡りさんや政治家ともなると、またちがうのかなあ。でも基本的には私は個人情報なんか何も知らなくても、地域住民であれば国民であれば、ひとしく愛して大切にして守ることはきっとできると思うのだけど。それができる世の中を作って行かなくちゃいけないと思うのだけど。