八月も終り
※今日は雨模様で幾分しのぎやすかったようです。
此のところ少し疲れ気味なので実家に帰るのはやめて、猫の餌やりは人に頼みました。時々泊って下さる方なので猫のモモもなついて居ますし、その内住み込んで頂く事も考えて居ます。
私は実家に帰るとつい、車を降りた瞬間から出発ぎりぎりまで、掃除や洗濯、庭の草取りと食事の時間も惜しんで働いてしまうので、疲れた時は帰らない方が良いのです。
※母が咳が出たり胸が痛い時があるので、CTスキャンを撮って貰いに今朝行きました。加齢の為に肺がかなり弱っているけれど、当面の心配はないという事で安心しました。母は「私は丈夫だから」と威張って居ました。「もう百を越えた」と先日から良く言うので「ちがうでしょう、まだ九十五でしょう」と訂正すると「あはは、そうだったっけ」と笑って居ました。
相変わらずすぐ前の事も覚えていないし、途方もない妄想を平気で口にしたりしますが、私は母が別に昔と変わったとは感じません。母の本質は全く以前と同じだし、認知症にはなっていても、認知症になっていない他の人よりは余程話が通じるし頼りになるし尊敬できます。(笑)
私はかなり複雑な話も平気で母にして聞かせるのですが、なぜか母は分ってしまいます。お互い、話す勢いで理解させ、勢いで聞き取っている感じと言ったら良いのでしょうか。
色んな方から「私達もいずれは年取ってああなるのだから大切にして差し上げなければ」などと言われる度に「嘘でしょう」と吹き出しそうになるのです。「貴方が逆立ちしても今の母のようにぼけられる訳ないでしょうに、思い上がりも程々になさい」と自然に実感として思ってしまいます。もちろん私自身も母のようには絶対になれないだろうと思っていますし。
人はぼけても狂っても、その人の器なりにそうなるので、自分の器以上の認知症には決してなれません。母を見ていてそれを確信できたのは幸福な事だと感謝しています。