土砂降りの朝
雨の大降りは水まきをしなくてすむから、うれしいのだが、その分雑草も枝も伸び放題かと思うと、それはそれで血が凍る(笑)。世間では彼岸花が咲かないと話題になってて、それは私も気になっていた。ここに来て、ようやくいつもの場所に数本ひょろひょろと茎が伸びている。「あの花だけは偉いもんだ、絶対に彼岸になると咲く」と母が毎年感心していたが、さすがに今年の暑さは、その花さえも狂わせたのだろうか。
足はほとんど回復して普通に歩けるようになった。丈夫な骨に生んでくれた親に感謝するしかない。しかし、まだ何となく気分じゃないけど機嫌が悪く、ともすればでれでれテレビを見てしまう。イスラエルのガザ侵攻はまったく胸が悪くなる。ネタニヤフが戦いをやめないのは、告発中の自分の犯罪が戦争が終われば追求されて没落するしかないからだということは、今やテレビのニュースでも言っていて、世界公然の事実のようだが、そこまでわかっていて、こんな低劣なアホのために、ここまで多くの人を死なせるのか。トランプはトランプで、ろくでもない活動家の暗殺に関して、政権批判というほどでもない批判をしたキャスターの人気番組が中止になったのを歓迎しているようだし、どいつもこいつも、まったくもう。
それに比べると世界陸上の中継はまだ面白い。何が面白いかというと、日本人選手が出ていない外国人だけの競技がけっこう多く中継されることで、ふだん見ない種目や有名な選手たちがたくさん見られるのが、楽しくて新鮮だ。私が小さいころのオリンピックもこうだったんだよなあ。最近では日本選手の動向だけがくりかえしクローズアップされ、メダルの数だけやいやい言うから、つまらなくてまったく見なくなってしまった。
世界陸上でも日本選手がからむと、応援ばかりでかったるくなるが、まだそれほどではないから、世界各国の国や選手や競技がいろいろ珍しくて、見ていて飽きない。
朝ドラ「あんぱん」は最後に近くなって、なかなか目を離せない。私はいつも舞台装置のことばかりほめて我ながら芸がないが、今朝もまた、ヤムおじさんのバイトしている店にヒロイン姉妹が訪ねて行く、店の裏口のセットにほれぼれした。おしゃれな店らしいから、裏口付近もなにげなく雰囲気があって、古びた白い鉄格子の門扉も、すごくそれらしくて、いい感じだった。本当にこのドラマは田舎も町も、それぞれの一角を絵画のように作り上げる。しかもちっともわざとらしくなく。
今朝はドラマの後に制作者の中山美穂氏の長いインタビューもあった。ヒロインを軍国少女にしたこと、それをきちんと演じてくれたことへの感謝を語っていた。前にも書いたが、それがそんなにすごいことだったのかと、あらためて驚く。当時の愛国心に燃えるヒロインへ視聴者が反感を持ったのにも私は本当に驚き、むしろ恐かった。中山氏も言っていたように、あの時代の若い女性は皆軍国少女、愛国者だった。私の母と田辺聖子さんの著述を読む限りでも、そのことはありありとわかる。それに対してあれだけ違和感や反発が生じることに、私は今の戦争反対や民主主義や平和礼賛の、むしろ脆弱さを強く感じてしまう。時代や周囲の空気が変われば、またするすると変化するのではないかとしか思えない。
先月死んだ猫のカツジの遺品をまとめておく箱をネットで注文して、そのままだから、どうなったかなと思っていたら、昨日発送通知が来て、数日中に着くらしい。なんかけっこうかさばる荷物になりそうで、ぶるっている。着いたらまあまたちょっと、彼の思い出を片づけられるだろう。
夜、いつも彼が寝ていたのを押しのけて場所の取り合いをしていたベッドの毛布にすべりこむ時などに、むしょうに彼に会いたくなる。触って抱けたらいいのにと思う。それと同時にその一方で、そうやって彼がそばにいてくれたら、どんなにか幸せだろうが、また落ち着かないだろう、不安と悲しみに襲われるだろう、彼がいない今の安らぎは、これでいいのだとも思う。
私が恐れ、怯えていたのは、自分の老いだったのだと、あらためて思う。足にまつわられるとよろめく自分、食事をしても入浴をしてもぐったり疲れて一時間は横になっていないと体力が戻らない身体、テレビの番組表の場面が見えなくなって来た老眼、何の前触れもなく折れて取れる歯、病院に彼を連れて行く時にキャリーバッグを運べないほど弱って来た腕、そうしたことのさまざまが、いつまでカツジをこの手で守れるのか幸福にしてやれるのか、最後まで最高の看病をしてやれるのかという、不安をいつも、どこかで押し返し続けていた。それは今消えた。その幸せは大きい。それはまちがいなく、それでも彼がなつかしい。
こんな生活、こんな毎日の生み出す喜びと恐怖と悲しみを、私はかくさず書いてきたつもりだ。その光栄も、その悲惨も。目をそむけたくなるほどのみじめさも。あらがって戦いつづける面白さと喜びも。でも、それを読み取れない人もいるのだろうか。まあそれもしかたがないが。
上の家をちょっと片づけがてら、文庫本の「団地のふたり」を再読した。それこそ実は先の見えない状況の中でも、のどかでそこそこ幸福そうな旧友二人の生活がやっぱり楽しかった。あとがきで原田ひ香さんが、この小説にはまったてんまつを書いておられて、その中に五十代の女性を主人公にした作品が少ないこと、どういうように生きたらいいのか迷いがちな年代であることなどという文章もあった。
先日から私をいらだたせ、ぶちきれさせている、私の老後の生き方に異様な興味や共感を寄せてくる女性たちの中には、若い人もいたが、そう言えば五十代も何人かおられたなと思い出した。その人たちの、多分自分とは似ても似つかない私の老後に、何か自分たちが使えそうなものがあるかと思うのは、そういう事情もあるのだろうか。「団地のふたり」は続編も出たようで、読みたいけれど、まだ単行本のようで、ちょっとためらっている。
ただ、私が、今回そういった人たちにイラツイたのは、端的に言ってしまえば、特にその中の数人に強く感じた、「謙遜してるようで、ものすごい自信」みたいなものだった。いろんなことに無難で通り一遍の感想や意見は持つけれど、絶対に出過ぎたことや過激なことは言わないで、危険はおかさず、大きな尻をどかっと大地に落ち着けて、金輪際動こうとしないふてぶてしさだった。それは言いかえれば臆病で不安な自信のなさだった。儒教でいうところの「郷愿(きょうげん)」とはあるいはこういうものなのか。
身体そこそこ健康で、社会的にもまあ尊敬され、いわば今の時代や世界をまだまだ何とかできるはずの、してもらわなければ困るような人たちが、私の死に支度にかまけて遊んでいるようでどうする。
私の母も叔母も祖父も、それぞれちがう方向で、私とちがった方向でも、死ぬが死ぬまで世の中のために尽くし、自分のことはかえりみなかった。私生活は荒廃し孤独でも、身近な者に迷惑をかけても気にしなかった。私はそれを見て来たし、それほどの勇気はないから、一人で静かに暮らすぐらいのわずかな余裕は持てるように、平和な社会と自由な職場と自分の暮らしを守るために戦ったし、犠牲も払ったし、努力もして来た。金や株とは関係ない、そんな貯金と蓄積を積んで来たから今がある。三十代でも五十代でも、自分の老後を守りたいなら、投票に行き政治に関心を持ち、ガザについて発言し、職場の不正を正し、周囲の弱者を守れ。それが老後の環境を整えるってことだろうに。
退職したあと、職場の環境は政府の政策もあって、いちだんと悪化した。それにめげずに、さまざまなかたちでがんばっている若い人たちには、尊敬と感謝とおわびのことばしかない。しかしときどき、「いいときにやめられましたねえ」と言われると、やはりもやもやする。ちげえよ、いいときにやめたんじゃない、私たちがいい職場を作っていただけの話だろうがと、言い返したくもなる。それが充分継承できなかった責任はもちろん感じているけれど。ほんともう、私は五歳の女の子がいばりかえるNHKの番組を、それほど好きなわけでもないけど、まったく、ボーッと生きてんじゃねえよ。
