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夏の終わり。

◇昨日、母を老人ホームに訪ねたら、疲れていたのか何なのか例によって「ああ、いよいよもうおしまいやね、私たちも。もうそろそろ終わりにしよう」と申しました。
ときどき言うことなので、「そうなの?」といつもは笑って流すのですが、仕事が進んでない、というより仕事をする気になれないこともあり、思わず「おしまいも、終わりも、そう思うんだったらあなた一人で終わって。私はつきあうのはごめんよ。まだまだこれから生きて楽しいことをするんだから」と言うと、「ああそう」と何かぶつぶつ言っていて、どうも「じゃあんた一人で板坂家を守って行ってね」とかいう感じでした。

はっきり聞こえていたら「板坂家なんて大嫌い、見守ったりなんかしないよ。第一あなた自身が板坂家なんてどうでもいいといつも言ってて、親に反抗してたんじゃなかったの」と言っていたところですが、よく聞こえなかったのでそのままにしました。

何だか、こういうことが度重なると、本当に足をつかまれていっしょに冥土へ引きずり込まれそうな恐怖を感じてしまいます。
「墓守娘」という社会現象が問題になりましたけれど、母もどうかすると完全に自分と私を一体化し、自分が死ぬときは私も殉死するものとどこかで思いこんでいるふしがあります。冗談じゃないわ。

◇私がこんなに不安定でいらついているのは、多分このごろ冷静に経済状態を検討すると、はっきり言って母があと10年も生きたら、その段階で貯金は底をつき、母が死んだ後の私は多分老人ホームに入るような余裕もなく日々の生活すらも危ぶまれる状況になるだろうということが予想できて来たからです。
それまでに自分の仕事を片づけて、家を売ってしまえばまだ何とかなるかもしれませんが、というよりそれしか道はないのですが、現在の家の維持費や生活費や研究のための資料や調査費もろもろをかせぐための仕事がありますし、母の世話にもそれなりに時間を取られるので、すべては遅々として進みません。

まああと数年は、今の状態で闇雲に進むしかないだろうと思ってはいますが、このままだと結局私は、自分の研究もささやかな娯楽も読書も、皆母のために制限するか放棄するかしなければならなくなる。
それもしかたがないか、それほど未練のある人生でもなし、とか思ったりもするのですが、そんな時母に「もう終わりにしよう」とか言われると、こんなに自分自身が好きなように生きて来た人のために、私が自分の人生をあきらめてどうする、とまるで私の身体と心と頭とが死ぬことを拒否して抵抗するように、何かが私の中でものすごく暴れます。

ひょっとしたら、こんな私の心境が、母に伝わっているのかもしれませんね(笑)。
両親の介護をして見送った知人がときどき言うのは、「こちらがもうだめと思った時に、ひとりでに介護していた相手の人の力も尽きる。そういうようになっているから、その時が来たらそうなる」ということです。

子育ても介護もそうですが、相手のためにすべてを注ぎたいし、自分のためにこれはとっておくなどと出し惜しみしたくはないけれど、そうかと言って相手がいなくなったとき、自分も消えるしかないまでにすべてを捧げてしまうというのも、なかなかに危険な賭けだと思います。
それが今、とてもはっきりしたかたちで自分の上に現れているのを感じます。

◇庭のシーサーになついていたバッタですが、昨日、シーサーのしっぽの下で死んでいるのを見つけました。
本当に「幸福の王子」のツバメのようでした。
もうアリが少し来ていましたが、近くのブルーサルビアのポットに埋めてやりました。そこからならシーサーも見えるだろうし。
ふと見ると、近くに立派なアブラゼミの死骸も転がっていて、こちらも近くに埋めてやりました。
夏もだんだん終わって行くんだなあとあらためて思います。

◇NHKの朝のドラマの「花子とアン」、最近ようよう演出も筋書きも落ち着いてきて、見やすくなった感じ。でも昨日だったかその前だったか、女流作家の戦地への壮行会の場面見てたら、宇田川先生がうまくって思わず笑ってしまいました。いい女優さんやなあ。

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カツジ猫