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夜ふけのくだまき。

◇私はかの小保方さんの書いた本を、ちょっと買って読んでみたくて、周囲の皆から全力でとめられてるんですが、なぜ読みたいかというと、あれだけの立派な組織であれだけの評価をされていながら、他人の論文のコピーについて、きっちり守るべきルールを知らなかったというのが、もうどうしても信じられないからなのです。彼女だけの問題ではなく、そんな事態になってる研究所や大学というのが、ちょっと考えられない。

それに比べれば、大学一年や二年の学生に、ぎゃあぎゃあ言うてもと思いますが、世の中がそんな事態になってるからこそ、やっぱりしっかり教えておきたい第一のルールは、「他人の説と自分の説は、きっちり区別して書きましょう」です。私に限らず大学の先生方の学生に教えることって、あとにも先にもこれしかないと言ってもいいぐらいかもしれない。

◇しかし、もちろんこれは慣れていないと大変難しくて、ネットでちらと見た記事を切り張りしてレポートにしてしまうという手抜きや確信犯のインチキとかではなく、まじめに調べて、ちゃんと書いていても、どこからが自分の意見かわからないまま、ずるずる書いてしまう人が、けっこう優秀な(んだと思う)学生の中にも、かなりいる。
ひょっとしたら、自分とちがう意見の人と議論したりすることが少ないせいなのだろうか。

私もできるだけ単位をやって合格させたいから、できたら、そういう失敗をしなくてすむようなレポートの課題にしたいと思って、いつもではないが、わりとよく、次のような課題を出す。

(1)何かテーマを選んで、それについて授業中に私(板坂)の話したことを、自分のことばで、まとめなさい。
(2)次に、そのテーマについて書かれている、論文や著書を見つけて、該当する部分を原文のまま抜粋して引用しなさい。出典を明示すること。
(3)最後に、その(1)と(2)を比較して、どこが同じかちがうかを述べ、どちらが正しいと思うかと、その理由を述べなさい。

これなら、他人の説と自分の意見を、ごっちゃにしようと思ってもできないだろうし、その方法を覚えれば、他のレポートや論文にも応用できるようになるだろうと考えていた。

◇だいたい、70人近い授業で、数人を除けば、ほとんどが、これで何とかそのルールを守ったレポートを書いてくる。というか、この形式では、そうならざるを得ない。
…はずだったのだが、なぜか今期は、そうならなかった。もちろん半分以上は、ちゃんとそういうレポートを書いているし、中には3項目ともに大変すぐれた内容のものも、いくつかあった。
だが、多分20人近くが、私が指定した形式を、あえて破って、自分で勝手に「はじめに」とか始めて、「まとめ」でしめくくったりしている。

私はもともと、こういう形式を指定したり、それを遵守したりするのは好きではない。だから、まったく勝手に書いていたからと言って、そこで即座にはねたりはしない。形式は守ってなくても、内容が合致していればいいと思って一応は読んだ。というよりは、そういうレポートほど熟読玩味した。
ところが、そういうレポートのいくつかは、驚いたことに、私が要求した三つの課題にまったくふれていなかった。自分で勝手に、あるテーマについて、調べて、まとめている。それもけっこう熱心に。
いったい、試験要領をプリントして配布し、授業中に口頭でも少なからぬ時間をついやして、なぜこういう課題を出すか、身に着けてほしいのはどういうことかということまで、かなりしつこく説明したのを聞いていなかったのか、理解しなかったのか、しっかり覚えていないまでも、何か残滓ぐらいは記憶に残らなかったのか、ふしぎでならない。

◇私は百歩でも五十歩でも譲歩するのは大好きだから、それでもまだ、そういうレポートでも、何とか点はやれないかと検討した。つまり、こちらの要望や指定はまったく無視していても、その内容が充実していて、論文としてのルールを最低限でも守っていれば単位を与えようと画策した。

だが、そういうレポートに限って、人の意見と自分の意見の区別がまるでできていない。もともと、こちらの指定した形式を守ってさえいれば、比較的簡単に区別はできるはずなのだが、自分で自由に書くとなると、それだけルールを守るには、少しは高度な技術が必要になるわけで、それなりの能力が必要になるから、ある意味これは無理がない。
しかも、完璧な事実誤認をしているものも少なくなかった。教えた私の恥をさらすようなものだが、相当長いレポートを書いているのに、浄瑠璃と歌舞伎の区別がついていないものがあったのには驚いた。それぞれ数時間かけて教えたはずだが、こういうのはもう致命傷としか言いようがない。しかし、いっそふしぎなのだが、私の話は聞いてなくても、調べたからには一応本も読んだのだろうに、どうやったら、こんなまちがいができるのだろう。

そこまでいろいろひどくないのは、かなりひどくても、努力賞か敢闘賞のつもりで、最低の合格点は与えたのだが、まさか点が低すぎると言って説明を求めては来ないよね。
脅かすつもりはさらさらないが、点を甘くしてごまかしてるのはこっちなので、きっちり点を出せと言われたら、気づかないふりもできなくなって、こういう人はあらためて落とすしかない。わあ、我ながら何とまあ卑劣な脅迫。でも事実だから少しはそのへん慎重になってね。

◇以上のことと関係あるのかどうかわからないのですが、何となく気になったのは、聞いてもいない自分語りをしている人が多いということでした。
(1)の「何かあるテーマを選んで」の部分で、「私はなぜこのテーマに興味を持ったか」を長々と書いていて、まあそれだけで点は引いてませんが、問題は、それと、私(板坂)の言ったことの内容をまとめるのとが、つながりすぎてごちゃごちゃになってしまっている。そういう人が何人もいて、これは減点せざるを得ない。

まあ私のせいもあるかもしれない。授業でも日常でも私はかなり自分の体験や好みや日常をぺらぺらしゃべりますからね。だけど、ここものすごく強調しておきたいんだけど、ほんとはヤボだからしたくないんだけど、私のそういう無駄話って、すべて、教えたい知識や伝えたい真理を、よりわかりやすくするためのツールですよ。それに役立たない無駄話は私一文字も口にしたことはありません。更に言うなら、ちゃんとそれが効果的になるように、面白い、珍しい、刺激的な、印象に残ることしか言いません。

だから、「聞いてねえよ」と言うような、自
分語りをぐちゃぐちゃ書いてた人がいたとしても、
 A それが何かの証明や説明の有効な手段となっているか
 B それが読んでいて面白く楽しめるものか
の、どっちかでもクリアしていたら、減点はしないどころか、加点します。
しかし、まあ普通の人なら(教師やタレントなど話のプロでなければ)それが当然でしょうが、今回のレポートのそういう部分は、一に不要で二に平凡、誰にとっても何の役にも立ちません。要求もされてないなら、そういうことは書いちゃいけない。レポートにでも論文にでも。

◇ええと、実はここからが書きたい本論の愚痴なんですが、さすがに時間がなくなったな。簡単にすませます。
何だかそういう聞いてもいない個人的な記事をいくつも読まされていると、これはこちらが指定した形式を無視して、あえて自分流の(それも平凡な、特に必然性もない)構成で書いてくることとも共通する、ある傾向なのじゃあるまいかと妄想してしまったりするのです。

ここからはほんとに愚痴というか、しらふのくだまきなので、傷つかないで聞き流してほしいのですが、特に面白くもない特別でもない自分のことに、皆が興味や関心を持ち、注目して特別扱いしてくれるはずだと、根拠もなく漠然と信じこんでいはしないかという気がするのね。そして、これがひとつまちがって、ひっくりかえると、自分の失敗や欠点を皆が注目してるような気がして、限りなく落ち込んで立ち直れなくなるのかもしれない。

もう何年も前からそうなのだけど、私は何となく学生が、卒業だの入学だの優勝だの合格だので、大騒ぎするのがうっとうしくて、ついでに言うなら世間で結婚や葬式やその他もろもろの行事をするのもうっとうしくて、何で自分や身近な人の幸福や不幸に周囲の皆がそんなに関心持たなくちゃならないと、当然みたいに信じられるんだろうと思ってしまうんですがね。そして、あー、この人たちは、生まれたときから、七五三だのひな祭りだの成人式だのって、親や教師が大喜びしてお膳立てして喜んでくれるのがあたりまえって思って生きて来たんだろうなって思ったもんです。

言っちゃ何だけど、私は大親友や信頼している人の家族が死んだり、その人が命の危険に冒されたときも、知らされなかったし、こちらもそういう時に知らせなかった。自分が大きな仕事を片づけたり、目的を達成したりしたときは、一人でにんまり家で祝杯をあげました。家族にさえも教えなかった。そういうもんだと思っています。
人は私に関心を持たない。持ってほしくもない。持たれたかったら、それなりの努力をし、自分をみがくしかない。

あ、もう一つ忘れてた。私はべらべら自分語りをして自分を見せびらかす時に、必ずその数倍の秘密は自分の中に持っておくようにしています。見せる部分なんて氷山の一角でいい。むしろ氷山と見せかけた火山でもいい。ありのままの自分を見せびらかしてさらけ出したら、その衝撃で周囲や世界が滅びるだろうから、大半は抑えて隠して生きて行く。そのくらいの精神的な預貯金がなきゃ、私は安心できません。

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カツジ猫