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年頭所感もどき

五時半に起きた。昨日久しぶりにブラシをかけられて、ぎゃあぎゃあ怒っていた猫のカツジは、それでも気持ちがよかったのか、枕の上でまだ寝こけている。

今日のお天気はどうなんだろう。三が日ももう終わるし、明日からは世間もそろそろ日常に戻る。どうせだらだら休養する予定の正月だったから別にいいけれど、また毎日の決まった仕事に追いかけられて、いつもの忙しさに戻る前に、もっと根本的な今後の方針を決めておきたいとあせっている。やれやれ、こうやって、結局また時間と予定に追われている。

この一年の目標は決まっているし、基調もだいたい定まっている。だが、それでいいのかしらん。この年になって友人や知人も次々亡くなり、かつての学生たちから来る年賀状には、かわいらしい孫の写真がいっぱい登場しているのを見ると、時の流れと世の中の変化がものすごく順調に進んでいるのを思い知る。

私は子どものころから予定を立てるのが好きで、母からよく「予定を立てるのに一番時間を使っているじゃないか」とからかわれた。しかし、今、一番予定していなくてはならないことは、どんな予定を立てていようと、突然の病気や死で、それがいきなり永遠にぶったぎられるかもしれないということだ。

そのことはわかっているし、どうしても中断されたくない予定と言えば、せいぜい飼い猫の死ぬまでは生きておいてやること、何十年もかかっている出版社への宿題の仕事を完成させることと、その二つぐらいしかないのだが、それだって私の意志だけではどうにもならない要素もある。ましてや、それ以外のさまざまの、やっておきたい仕事については、どれも、いつ中断されても残念には思うまいと、ずっと前からあきらめて来た。

その上で、その予定に身をまかせて残りの人生を過ごすことに、後悔はないのか迷いはないのかという、ふわふわとした問いかけがいつもそのままになっている。その疑問や迷いをとっぱらっておかなくては、最後の日々に全力投球できないし、結局うだうだ迷いながら、もっといいやり方があったのではないかと最後まで思ってしまうだろう。そんなのはいやだ。というか、そんな暇はないのだ。

大学で役職について忙しかったとき、私は変に文房具を買いこんでいた。何か、気に入ったファイルとか、クリップとか、そういうものが一つ手に入れば、めぐりあえれば、それをきっかけに、魔法のアイテムを得たように、全生活が画期的に改善できるのではないかと夢見ていた。こけても被害の少ないばくちだったし、結局はこけた。
今は文房具ではないが、何かキーワードのようなものを一個つかめば、それで残りの人生一気に迷いなく、かたがつけられるのではないかという期待を抱いているのは同じだ。

私が昔から、失敗したり苦境に追いこまれたりするのは、いつも与えられた仕事に全力投球しないからだ。必ず副業や趣味を作って逃げ道と冷静になる休憩所を探しておく。それで実力に見合った成果を多分いつも上げられないが、しかし、それが結局は実力以上の成果を生むことにつながったりもする。
上からはもちろん、下からや横からの評価や要望に私は身をまかせたくないのだ。そこに自分のすべてを投入したくない。早い話が、不治に近い病が見つかっても、死期がせまっても、闘病に全精力を注ぎ込まないで、他のことにも時間をさいている内に結局回復しそこねて、早めに死んでしまいそうな気がする。わお。

もうこの年になったら、何十年も生きられるわけじゃなし、その点では不治の病にかかっているようなものだ。その中で、生命の維持(これが体力づくりとか食生活とかいうだけでなく、日本と世界が平和になることも目標として加わっちゃうのが、ややこしい)と、全力投球することについては、ほぼ固まっているのだが、問題は、それ以外のどうでもいいような遊びや楽しみを、どのくらい確保するのか拡大するのかということだ。

私は普通の人がすることで、して来なかったことは多いので、恋愛、結婚、子育て、海外旅行などなどと、新しい冒険の余地はまだいくらでもあるのだが、金や時間や体力を考えた場合、おのずから限界はある。できれば人に被害をもたらしたり、猫や出版社に迷惑をかけたりするようなことはしたくない。

結局、そう考えたとき、一番被害も危険も少なくて、効果が上がるのは何かというと、私自身の性格の改造なのですな(笑笑笑笑)。
ここ最近もやもやと、それを結局考えている。
私は昔から、人に分析されまい定義されまい予想されまいとして来た結果、相当いろんな性格の人間になることができる。多分、自分の本質は変えないままで。
だから、クロゼットにいろんな服があるように、さまざまな性格のストックがあって、かなりの幅で変化できる。困ったことには、もうどれも、かなり使ってしまったので、まったく新しいバージョンというのがなかなかない。

それを作ってみたいかなと思う。「あの人は死ぬ前の最後の十年、別人のようになりましたね」と言われるような人間になってみたい。できれば自分も他人も幸福にして、この世をよくするようなかたちがいいから、これもまた、やろうと思えばなかなか難しい。
外見とか能力とかには関係ないのだから、昔から映画や小説からも、なってみようと思う性格について、たくさんヒントはもらっていた。しかし、最近では、何を読んでも何を見ても、ひょっとしたら現実を見ても、おお、これは使えるなというような新しい発見がない。極悪人から聖人まで、皆、すでに私のクロゼットに入っている性格ばかりだ。そういうことだから、おのずと読書も映画鑑賞もしなくなり、人付き合いも悪くなる。

映画も漫画も小説も、そして現実のつきあいも、山ほど見ている中にやっと一つか二つほど、こちらの生き方を変えるような新しいことばや精神が見つかるものだ。だから、淀川長治氏のせりふじゃないが、つまらないものを死ぬほど見ないと、これというものには出会えない。だがいかんせん、私にはもうそれだけ、無駄なことをしている時間がないのだよ。ううん、そこがまちがいなのかな。

何年か前、教え子の一人から、小説や映画を途中でやめることについてどう思うかと相談されたことがある。絶対にそういうことはしなかったのだが、最近それもやむを得ないかと思うようになったとかいうことで、私は明確な回答はできなかった。彼と私は生き方や考え方のどこかはとても似ているが、どこかは根本的にちがう。私の行かない戦場や未開の地を探検してもらうには、それでなくてはいけないから、その方が助かるのだが、とにかく私のやり方は、あまり参考にならないはずだ。

私自身は昔から、映画でも小説でも漫画でも、読み始めたら普通最後までやめない。ついでに言うなら人間とのつきあいも、めったなことでは終わらせない。しかし、ある時期からは、そう言えば、中途でやめることも出て来た。私がというよりも時代がそうなっているのかもしれない。最初の数ページで人をひきつけられないものは、きっと消えて行くしかないのだろう。

さてどうしよう。ともあれ、コーヒー入れて朝食にするか。

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カツジ猫