幸先いいかも
一昨日だったか、裏の崖を見に行ったら、崖がすっかり削られていただけでなく、私の家の敷地もすっかり低いところまで掘り返されて、表の方と同じ高さになっていた。この裏庭の部分は、土が上から落ちてきて堆積したのか、もともとがそうだったのか、私の家の手前よりかなり高くなっていて、私の下のお隣との間の崖のフェンスが、いつ押されて倒れるか心配だった。将来、家を売る時も、その前に、ここの工事が必要だなと思って、いくらかかるやらと気がかりだった。
それが、崖の上が住宅地になるおかげで、上の土地との間にはちょっとやそっとでは崩れない擁壁ができるようだし、私の方の土地は手前の部分と同じ高さまで低くなったので、もうめったなことでは下の土地の方に崩れ落ちる心配はなくなった。万万が一そうなったとしても、まあ何とかなるだろう。
長年の懸案事項が、まったく金銭的負担もないままにかなり解決できたのは実にありがたい。その代わり、適当に植えたり生えたりしていた、椿もミカンもツワブキも水仙もジンジャーも、掘り起こされて皆消えてしまった。月桂樹だけは私が見に行ったときまだあって、「どうしますか」と聞かれたので、できたら掘ってそのへんに置いておくように頼んだ。裏庭の代表として、前の方の庭に植え替えてやる。葉っぱを料理に使えるよう、取りに行きやすい近い場所に植えておけばいい。
まあ、こんな幸運が向こうから来てくれるのは、今年はひょっとしたら幸先がいいかもしれない。まだ初詣にも行ってないけど。
昨日、久しぶりに本屋に行って、気晴らしに読み飛ばす文庫本を数冊買いこんだ。昨夜から今朝にかけて、小野不由美の「残穢」と、櫛木理宇の「少女葬」を読みあげる。「残穢」はなるほどさすがに小野不由美はうまくて、部屋に置いておくのが恐くなる本だ。不幸に死んだ者たちの霊があっちこっちに伝播して、他の不幸と重なると増幅して更に被害者を増やす。作者の昔の「悪霊」シリーズもそうだったが、被害者や加害者が誰も決して悪人ではなく狂人でもなく、むしろそれぞれの事情があって、無気味な状況に皆理屈がついて行って、普通ならそれで恐さが薄らぐはずが、逆に救いがなくますます恐くなるのが立派だ。
作者はもちろん確信犯で避けているのだろうが、これだけ不幸や悲惨が、まったく偶然に途方もなく拡散していく現代と現実の中に、戦争とか原爆とか空襲とか社会的、歴史的事件がほとんど、いやまったく登場しない。私のように最近大田洋子などの原爆小説を読みふけっていると、あの大勢の酸鼻をきわめた死を死んだ人たちの霊はそれじゃどこに行ったんだと思わないでもないが、逆にそういうことをすべて省いても、平和な普通の生活の中に、これだけの普通の悲惨と不幸が埋めこまれているというのも、それはそれで恐い。
この小説には、建物としての家がかなり大きな役割を果たしているので、私もふと、生家や下宿やアパートなど、これまで住んだ家のいろいろを思い浮かべてしまう。この小説は人間同様、家に対しても、決して絶対的な悪や危険のひそむ場所にはしていなくて、同じ家に住んでも幸福で平和に暮らしている家族もいることになっているので、これまた救いがある分、救いがない。安心できる条件が常に定まりなく不安定で、そして結局それは、家や人に限ったことでなく、人生や運命そのものの不安定さだなということが、ぼんやりわかってくるからそれも恐い。絶望するのも希望を持つのも、どっちでも自由なのだ。
以前、授業ノートでホラー小説について書いたとき、すべての恐怖小説は因果応報型と理不尽型にわけられると私は書いた。「残穢」はもちろん完璧に理不尽型だが、その理不尽さが複雑で「誰彼かまわず」という定義さえない理不尽ぶりが徹底している。
「少女葬」も、型通りな部分もあるが、リアルな事実の積み重ねがその大味さや稚拙さを凌駕して一気に読ませる。登場する男女の誰もが、ものすごく差があるのではなく、最低の男女も、最高の男女も、決してそれほどまでちがっていないのではないか、誰もが正反対の誰かになれたのではないかという感じが伝わってくる。救われる少女には、それだけの決定的な資質があったのかもしれないし、運の良さとは関係ない本質的な何かがあったのかもしれない。しかし、そうでもないのかもしれない。救われない少女の資質も実は素晴らしいし尊いほどに立派だ。
こんなところで自分の好みをぶちまけてもしょうがないが、実は私は、この小説の、救われない少女のタイプがわりと好きなのだよね。私の中にも確実に、この少女がいると感じる。
写真は、母の命日つまりクリスマスに買ったラナンキュラスだが、もう十日過ぎた今でもまだ、まったく変わらず、みずみずしく鮮やかに咲いている。仏間が涼しいのがいいのだろうか。