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彼が与えてくれたもの

ただ、一切は過ぎて行きます。

…というのは太宰治の「人間失格」のラスト近くの文章でしたっけ。最近の私は何となくそんな気分です。
 さしせまった仕事も家事もある。それは何とか期限をにらみつつ、横目で片づけて行っている。毎日それなりに楽しいこともあるし、あっという間に一週間が過ぎておやおやと思うけど、そのわりに月はまだなかばにしかならない。
 前からこうだったのかなあ。そんな気もします。それとも十六年いっしょに暮らした猫のカツジが先月ふっと体調崩して死んでしまって、それを庭に埋めるやら彼の遺品を片づけるやら、とにかく日常で前進や変化しているものがそれしかないから、時の流れがつかめなくなってるのでしょうか。いかんな、電子書籍の原稿のチェックとか、もっとめりはりのある仕事にはげまねば。

いろんな人からペットを亡くして涙にくれている飼い主の方々の話を聞き、まあ何かひょっとしたはずみに、私もどっと悲しくなるかもしれないと、ぼんやり思ったりはするのですが(大昔に大学生か院生のころ、実家で飼っていたマダムという立派な猫が死んだときには、まったく何の脈絡もなく、「彼女は海を見たことがあったのかな。海も見ないで死んだのかな」と思ったとたんに泣けてしかたがなくなりました。海なんかマダムが特に見たかったはずもないから、あれは私がただ泣き悲しむきっかけに使っただけだった気がします)、何となく、そんなきっかけは来ないのじゃないだろうかという予感もしています。

カツジのしっぽや足先や、まん丸い目や、口元から妙にのぞいていた小さい牙や、私が好きだったもののすべてを思い出すし、目を横に向ければ、彼の落っこちていたひげを、毎回ひろってテープで壁板に貼っていたのが、まだそのままに何本も残っている。でも何だかそれらを思い出しても見ても、泣くより前に笑ってしまう。彼を失った気がしない。そもそもいっしょにいた気もしない。それほど一体化しているのかもしれないし、ちがう理由があるかもしれない。よくわかりません。

とてつもないことですが、彼の最期を思い出すと、「あんな死に方いいなあ」と、どこかで思ってしまうから世話はない。いつもと同じ環境で、多分そんなに苦痛もなく、ただだんだんに疲れて眠くてやる気がなくなって、気がついたら死んでた、みたいな。第一、多分きっと彼は、そもそも死ぬ気はなかったと思えてなりません。食べるのも飲むのも歩くのもめんどうになって、でもまあその内またやる気になるだろうから、それまで一眠りしようと思って眠って、それっきりだったんだろう、ひょっとしたら死んだことにまだ気づいていないままなんじゃないかと思うのです。気づいても、特に残念とも思わないのじゃあるまいか。その内また元気になったら、また普通に暮らそうとは思っていても、そこで何をしようとか、なしとげようとかは、絶対思ってなかったはずで、まあそりゃ猫だから当然ですが、とにかく「まだ死ねない」とか「死にたくない」とかいう気力ややる気は、もともとあんまりなさそうでした。どことなく、いつもつまらなそうで、執念深さや覇気というのが、感じられない猫でした。

書いていると笑えて来るのです。そんな彼が好きだったし、ちょっと尊敬するのです。死ぬ気などなく、かと言って、やる気もなく、私を好きだったかどうかさえ、よくわからない彼が、おかしいほどに、なつかしい。
 ただ、彼と同じ死に方をしたくても、もちろん私にはできないですよね。私のような存在がいないわけなのですから。彼とちがって(笑)。そこはしっかり自覚しておくしかないでしょう。
 こんな気持ちを私に与えてくれたことに、私は今、大っぴらにではないけれど、おそるおそるひかえめにそれとなく、彼に感謝しています。これまで飼ったたくさんの犬や猫と同じように、多分最後に飼う猫として充分すぎるほどのものを、彼は私に残してくれました。立派だったよ、ねえカツジ。ともに暮らせて、光栄でした。

庭では初代猫おゆきさんの墓のそばに植えた、ハイビスカスが思いの外根づいて、景気よく花を咲かせています。

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カツジ猫