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思わぬ成果

出身大学の研究会をオンラインで行うというので、面白そうだから挑戦して見ました。予想はしてたけど、途中でこけて、結局参加できませんでした(笑)。まあ、この分では非常勤先の大学の後期の授業もオンラインになる可能性が高いので、その内再度挑戦して見ようかと思っています。

しかし、それってもしかしたらパソコン机周りも映ったりするのか?と思ったもんで、大急ぎであたりを片づけた結果、ずっとやらなきゃならないと思いつつやれなかった、そのへんの片づけがいっぺんにできて、大変すっきり気持ちよくなった。これで予定の仕事もだいぶ進みそうだ。

積み上げられた本の中から、どこに行ったんだろうと思っていた「めぐりあう時間たち」も出てきてうれしい。これはかつてラッセル・クロウのファンサイトで知り合った編集者の人が読んだからとくれた本で、逆にあげてしまうことは多い私にしてはちょっと珍しい手に入り方だ。それもあって大切な本だ。
もちろん中身もいい。映画も好きだったが、本も好き。いつどこを読んでも、いい音楽を聞いているように、なつかしく、新鮮な気分になれる。
最初読んだとき、感心しつつ驚いたひとつは、人工授精で娘を生んで、同性の恋人とパートナーになってニューヨークで豊かな優雅な暮しをしているクラリッサが、その娘の恋人の過激なレスビアンのおばさんに「俗物の保守派」と軽蔑されていること。もう、世の中の進み具合の痛快さに、宇宙飛行をしているように、何だか頭がくらっくらした。

この本がここにまぎれこんでいたのは、「お買い物と文学」に書こうとして持って来ていたからだな。あのシリーズもいずれ電子書籍にしたいのだが、そろそろ「お買い物」場面のストックがつきかけている。好きな本しか使いたくないし、そろそろ新天地を開拓するか。このごろヤケの暇つぶし用に読んでるコミックの「極主夫道」とかいいかもしれない。あれならそれこそ、お買い物シーン満載じゃんよ。

その暇つぶし(暇ないけど)用に中身まったく知らないで衝動買いした文庫本「停電の夜に」(ジュンパ・ラヒリ)が、けっこうよかった。訳者も好きだと言ってる、最後の「三度目で最後の大陸」なんて、不覚にもちょっと涙しそうになったぐらい。どうということもない留学生の話なのに。
作者はインドの出身で、でもそんな人は一般でも作家でも全然もう珍しくもないらしい。短編集だが、おしゃれなアメリカ暮らしの若いカップルや、異文化との交流が淡彩色の織物のように紡がれて描かれている。予告編ばっかりいやというほど見て、結局は見ていない「ペルセポリス」をちょっと思い出したりした。

国際共生課程で教えてたころ、アジアの小説をいろいろ読んで見たことがある。「サーラピーの咲く季節」なんか大好きだった。女性作家が多かった。そんな世界も思い出す。
文化の違いということじゃ、一度ミステリで、面白かったんだけど、そこそこ立派な住宅街で、ベトナムかどっかの出身の家族がご近所の猫や犬を食べちゃってたという話を読んだ(それはメインの犯罪とは別)ときは、笑いつつ、ちょっとうわあと思ったけど、今なら庭に糞をしに来るノラ猫にむかついてるので、あれ誰かが食ってくれたらと思わないでもないのよね。

こういう本を読んでると、レマルクの小説類にはまっていた時もそうだったけど、難民とか外国人の滞在者とか留学生とかいうものが、すごく他人事とは思えない。私は留学生たちに何一つと言っていいぐらい、親切な対応をしなかったし、むしろ入学には慎重な方だったけど、今回の政府の救援金が外国人留学生に差をつけて成績優秀なものだけに与えるという方針(今は反対の声が多くて変わったようだ)には、あらゆる意味で本当に肌に粟を生じるぐらい、気持ち悪くて腹が立って恐かった。バカほど傲慢になりたがるという定理をひさびさに実感した。

評価したがるものは、その分必ず評価される。浅薄な差別で人をランク付けしていい気分になっていたら、された方からも判断され評価されランク付けされる。「停電の夜に」に登場する外国人や留学生のまなざしを、私はひしひしと感じる。その人たちに日本がどう見えるか。何十年というほどもない近い未来に、その印象と評価が世界で日本をどのような地位におくか。人道的になれないなら、せめて功利的に考えて見るがいい。愛国心とやらを持ってるつもりの人々は。

そう言えば内閣の支持率が下がったらしい。当然とも遅すぎるともまだ20%台もあるのにあきれるとも思うけど、だいたい私は「危険水域」ということばも気に食わない。そんなゲームっぽいたとえ用語で表現できる神経がわからん。まじめにとらえてないだろうが、政府関係者もマスコミも。こういう呼び方、本当にいやだ。

私は何とかミクスとかいう経済用語もどきを一度も口にしたことはない。今回のあのごまかしの金儲けのボロマスクを、安倍晋三の名をつけて呼ぶ感覚も信じられない。そういう愛称っぽい呼び名が、真剣さを薄め、冗談にしていかんことを冗談にしていることがわからんのか。あの愚かな集団の政治では、もうすでに人が死んでるんだぞ。その人たちの墓の前で、あの軽佻浮薄な呼び名を口にできるか。本当にこういう、人も自分も殺されかけてても笑い話にしつらえておけば何とか状況が好転するんじゃないかと、どまぬけな期待をするのは、いじめやDVにも共通する破滅への道だ。

いや怒っているうちに、また朝ごはんを食べ損ないそう。水まきもしなくちゃね。どうせまたノラ猫が糞をしてるんだろう。ほんとに誰かあいつらを食ってくれ。

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カツジ猫