愛されなかった舞台
遅くなったが、前回の大河「べらぼう」は、なかなかの迫力と重量感だった。恋川春町の最期(史実ではあきらかでないところもあるが、このドラマの作劇として)もなかなかで、しかもそれを聞いた、蔦重初め本屋仲間が、怒りや悲しみをいっぱいに抱えたまま、笑って彼を追悼する場面では、共感と幸福で身体がぞくぞくした。
悲痛さと憤怒の極限を、しっかりと理解したからこそ、薄っぺらでも安っぽくもない、鋭く危険な冗談で吹き飛ばす、この精神を共有できない人間を、私はいつも激しく憎む。たがいの心の痛みやよじれを知り抜きつつ、正確にそれを受けとめて、いっせいに爆笑できる、これらの仲間がいる幸福を思う。
それはこのドラマが描いた、自分の本心を明らかに伝えることさえ、みっともないと拒んだ、にも拘らず、その重みを正確に誠実に理解してもらえた、春町その人の幸せでもある。最高の供養に他ならない。
その前の回あたりからも、「ふざけて意味のない冗談を楽しむことに命をかけて戦う」精神が、ややストレートすぎるほどに、みなぎりわたる各画面に、いつものことだが、中村幸彦、中野三敏先生が見ておられたら、何とおっしゃるだろう、喜ばれるか、何か言われるか、知りたくてしかたがなかった。
朝ドラ「あんぱん」も、どうやら穏やかな着地を迎えそうである。毎朝八時にあわせて、きりきりまいするのがくたびれたので、次の朝ドラは見まいかと思っていたのだが、「ぼけぼけ」の予告を見ると、ヒロインが何とも役柄にふさわしくいい感じなのと、ラフカディオ・ハーンが愛した島根の町を、えらく力をこめて描こうとしているらしい様子に、ついまた見たくなってしまった。どうしよう(笑)。
戦争の描き方、俳優の演技力とともに、私はずっと「あんぱん」の、画面構成の美しさ、セットのみごとさに魅了され続けて来た。ヒロインの故郷の山河、母が立ち去る長いあぜ道、何でもないアパートの前庭、レストランの裏口などの、絵画のような美しさに、いつも息を飲まされた。「ぼけぼけ」はどうやら更に意識的に、そのような描写を追求するらしい。くやしいが、見てみたい。
その前の朝ドラ「おむすび」の評価はさんざんで、俳優さんの演技や脚本が槍玉にいつもあがっていたけれど、私としては最初のころ一番ものたりなかったのは、わりと近い地域でしかもあまり行くことのない、福岡の糸島が、ちっとも魅力的に描かれてなかったことだった。どこにでもあるような、海で田んぼで、それは福岡の町もそうで、その後の関西の風景もそうだった。
糸島も博多も、制作陣から愛されていなかったなあ、大切にあつかってもらえてなかったなあと、「あんぱん」を見た後で、あらためて、しみじみと淋しい。
猫のカツジの月命日は、静かに過ぎて行っている。花屋さんにお花を買いに行ったら、もうひと月になるのかと驚かれて、きれいな花束を作って下さった。
久しぶりに彼の大好物だった、フクのさしみを買ってやって、供えながら思い出したのは、こいつに毎回、おさしみをわけてやって、時にはほとんど取り上げられて、私はツマをおつゆや味噌汁に入れるだけのこともよくあって、おかげでパックについていた、お醤油やポン酢の小さいパックが、いやっというほど余ってしまって、冷蔵庫の中にあふれているということだった。
今、ちびちびと、サラダやきゅうりのあえ物に使って古いものから消費して行ってるけど、まだまだ相当残っている。年末までに使いつくせるといいが。優しい飼い主なら、使うたびに涙するかもしれないが、私はよくもまあ、これだけ猫のためにさしみを買って、よくもまあ、奪い取られつづけたものだと、自分のよくよくの甘さかげんに複雑な思いがこみあげる。少なくとも、この小パックがすっかりなくなるまでは、私が疲れて腹ぺこで、こそっとごはんを食べ始めたとき、寝こけていたのにむっくり起きて、のそのそベッドを横切って、おかずをチェックしにやってくる、灰色の毛のかたまりと、泣きそうになりながら、ごはんを中途であきらめて、彼の食事を作ってやる自分の姿が目に浮かび、あらためて、あん畜生めと腹が立つだろうから世話はない。ほんともう、かわいそうな飼い主だったよなあ(笑)。

