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慈善も好意も管理しないと落ちつかない?

ゆきうさぎさん

少し、いやかなり前にここに書いた「ラフな格差論」シリーズの最後の方でたしか、「自分の目に見えないところで、いいことをするような余力を他人に残させてなるものか」と思っている人がふえているような気がする、と書いたと思います。
自分の書いたことなのに、正確なことはもう覚えていないのですが。(笑)

今回のタイガーマスク騒動での、さまざまな発言を聞いていると、自分のその感覚が正しかったのではないかという気がして、あんまりうれしくないですね~。
「匿名はいかん」「顔を見せて寄付しろ」といったたぐいの意見が多いですよね。気持ちはわからんでもないですけどね。誰がそんな「いいこと」をしているのか、わからなかったら落ちつかないんでしょう。そこが楽しいのにね。こういうことは。

原作のマンガがそうらしいけど、こういう寄付して感謝されている人が、現実にはすごくイヤなやつだったり、犯罪者だったりするかもしれないわけですよ。もしかしたら、自分の家庭や家族を放り出して育児放棄してるやつかもしれないわけですよ。
もちろん、現実にも大変りっぱな人であるかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。それがイヤな人もいるんじゃないですかね。ちゃんと自分の義務をまずはたせとか言いたい気分なのかもしれない。

しかし、どんな悪いやつでも、社会のお荷物でも、人間としての義務をはたしてないやつでも、いいことしたくなることはあるし、する権利も資格もあるんですよ。そこがわかってない人が多いんじゃないですかね。だから、得体の知れない、正体不明の好意や善意は受け取りたくない、受け取れない、受け取らせたくない。いわば、身分証明書のないやつは人を救うことさえしちゃいけない。そういう発想が広まりはじめている。

管理したいんですよ、徹底的に。誰がどこでいつ、いいことしたか、人を救ったか。知っておきたいんですよ、自分の周囲ももっと遠くも。かくれた善行なんかさせて、神様の通信簿でこっそり点をかせがせて、自分に差をつけさせてなるものかって、気が気じゃないんですよ。そういう人にとって、今回のことはすごく落ちつかない、いやな気分になることなんだと思う。

二つの方向からイヤなんだろうね、多分。自分の周囲の「こんな人」とすべて知ってたつもりの人が、思わぬいいことして、自分より善根(古いことばだなあ)を積んでいる可能性が不安。隣の奥さんが自分より定期預金を持ってるかもしれないみたいな。
もう一つは、いいことした人が、実はものすごい悪い人だったら困るという不安。いいことした人がどんな人か、そういうことする資格があるか、しっかり調べておさえておきたいという不安。

こういうことが気になる人は、悪人はもう悪人のままいてほしいわけです。カンダタはクモをふみつぶすのを一回だけでもためらったりなんかしちゃいけない。ジャン・バルジャンは人を救ったりしちゃいけない。だって、話がややこしくなるから。

いや、すべて、わからんわけではないんだけどね。でも、そういう、思いがけない面、予期しない展開、みたいなものを許せない、受け入れる余裕のない人間や世の中は、とてもきゅうくつで、味気なく、殺伐としたものになってゆくしかないと思います。
私は悪いことだって、不規則で気まぐれな方がまだいいと思うぐらいなので、ましてやいいことは、いくらでも予想がつかない、先が読めない、不意に突然おとずれて、つづく保障は何にもない、というのこそ最高で気高い(笑)と思っています。
だから、顔見せて、定期的に好意を見せなきゃ不誠実だなどと言われたら、失礼ながらくそくらえと言いたくなりますね。天を恐れぬ暴言を吐きますと、幸運の女神でなくても、どんな神でも、神はそんなことを要求するやつにはほほえまないですよ。

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