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懐かしい道。

◇相変わらず涼しいので、毎朝水をまくかどうか迷います。しかし8月にこんな日が数日あったとき、一日二日水をまかなかったら、葉牡丹と花簪の古株がみごとに枯れてしまったので、念のため毎朝水まきを続けています。せみももう、まったく鳴かなくなりました。季節はあっという間に変わって行きます。

◇上の家の物置きで、物置きといってもガラス戸で暖かくきれいな場所で、庭にも出られるし、そこそこ快適な生活をしているのに、ノラ猫化して私を見ると嵐の夜でも雷の夜でも大雪の日でも速攻で庭に逃げていた、白黒猫のマキちゃんは、最近少し軟化して、私をガラス戸越しに見ると逃げないで近寄ってきて、にゃおにゃおエサを催促し、私が近づくとシャアアと怒るなど、意思疎通をしてくるようになりました。結局外に逃げて行くのですが、死ぬまでこいつを抱くことはあるまいと思っていたけど、可能性あるかな。

最近は年をとったのか、寝床で寝ていて私がそばまで行っても気づかず、頭をなでると、ぱっと目を開けて飛んで逃げていきますが、それもそう狂気のようにパニクってるという感じではないし。
でもちょっとまた、何か気に食わないことがあったら、一気に文字通りすべてリセットして初期化しちゃうんだろうなあと思うので、私はかえってびくびくものです(笑)。

◇昨日の夕方、ふと思い立って、九州国立博物館のラスコー展を見に行きました。何度か行ったことはあるのですが道を忘れていて、高速使って大回りし、行きついて見て気づいたら、昔叔父や叔母が存命のころ、何度も通った一般道の途中だったと思い出しました。クロマニヨン人の世界ならぬ、ほんの少し前の過去にさまよいこんだ思いがしました。

展示は面白かったけど、まあ洞窟や壁画を持ってくるわけにいかない以上、そうなることはわかってるんですが、壮大な電気仕掛けの子ども用のお祭りを見せられたようで、何だか変な気分でした。クロマニヨン人の扮装をした男女が奇妙な言語を口走りながら歩いて回って皆と握手をしているのも、前もって聞いたときは、いったいどういうことになっとるんじゃと混乱していたのですが、そういう意味では納得しました。そういう催しだったのね、展示自体が(笑)。たしかに何の違和感もなかったわ。

◇モナリザでもミロのビーナスでも、ヨーロッパの名画でも、展覧会のようなものを見るたびに、現地に行けない、住めない、そういうことは死ぬまでない悲しみや淋しさを逆にいつも味わいます。しかたがないことですけれど、そうまでして、「立ちどまらないで下さい」と言われて通り過ぎながら、ライトの中で仰ぎ見たりのぞきこんだりする美術品は、それを見たとはとても言えないような気がする。

まあそれを言うなら英国やフランスの博物館にある美術品の多くだって、もともとは地中海の島とか砂漠にあったのを拉致されて来てるわけですから、やっぱりなかば死んでるんでしょうけどね。「レ・ミゼラブル」のミュージカルでフォンテーヌが歌う「あんたが抱いてる女はとっくに死んでるのよ」って売春婦の歌じゃないけど。それでも売春婦を抱いてヤれるだけはヤれるだけ満足するべきかもしれないけど。

◇だからってことはないけど、せめて、そんなに世界的に有名でなくても、好きな画家や芸術家のギャラリーやアトリエで、シャワーを浴びるように本物にふれたいし、たとえば国東半島の磨崖仏や不動尊や十六羅漢のように、その地の路傍や草の中にあるのを訪れてながめて、口直しをしたい。
昔、国東半島の仏たちを見に行くのが好きで、よく行っていて、それが大都会のデパートに展示されるときも見に行ったのですが、人工のライトの中で、見慣れた十六羅漢たちの顔と姿は、同じように魅力的でしたが、でもまったくの別物でした。
外国の著名な芸術作品を、日本の美術館で見るとき、私は何となく、あの国東半島の仏像のことを思い出して、頭の中で「現地だとちがうんだろうなあ」と想像する、ものさしにしている気がします。

◇で、ラスコー展、その奇妙な感覚に混乱したせいで、ファイルやハガキなどのグッズをしこたま買いこんで、思わぬ散財をしてしまいました(笑)。

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カツジ猫