戦争トラウマについて(3、これでおしまい)
この本は、冒頭から具体的な「戦争に行って人が変わってしまった暴力的な父とその家族」という、わかりやすい例をいくつも重ねてくれていて、とても読みやすいのだが、中盤になると、きちんと専門的な戦争トラウマの専門的な知識とか歴史とかをしっかり述べてくれていて、読者の理解を助けてくれる。そこは、皆さんがそれぞれに読んでいただくことにして、そのあたりまで読み進んできた私の心に、ちらちらきざしていた疑問というか気がかりは、「だけど、もう戦後八十年になろうかという今、児童虐待やらDVやらは、あいかわらず盛んなままだ。そこはどう解釈したらいいのだろう」ということだった。
本の後半は、その点について書かれている。一言で超簡単に言ってしまうと、戦争トラウマが生む暴力的な父と、現在の家庭内暴力は決して無関係ではない。つまり、そういう家庭で暴力にさらされ、被害者として体験した子どもたちが、成長して親になったときに、受けた加害を今度は自分がくり返してしまうという状況だ。
そのような例のいろいろも、さまざまに語られるが、その現れ方は各家庭で本当にさまざまで、孫の世代まで巻き込んで、実に複雑で一口にはまとめられない。だが、その安易に図式化できない多様な状況の中から浮かび上がるのは、普通の平凡な民間人が、戦争という異常で過酷な体験を、誰にも語れず理解されず、さまざまなかたちで孤独に処理して行かなければならなかった不幸と、それが周囲の人々にもたらす、ゆがみの大きさと深さである。
その中で、著名人の語る父の思い出話が二つある。フリーアナウンサーの桑原征平氏と俳優の武田鉄矢氏のインタビューだ。戦争で壊された父の姿をありありと描き出して、いろいろとちがっているが、否応なしにあまりにも共通するかたちも浮かび上がってしまう。
特に武田鉄矢氏の語りは、この人らしい話術の巧みさもあって、読んでいて涙も笑いもこみあげる、戦争と家庭のあまりにも典型的な映像だ。そしてそれは、多かれ少なかれ、日本全体のあらゆる家庭に共通する、戦後社会を反映した庶民の暮らしなのでもある。
私自身がその時代を生きていたから、よくわかる。戦後社会は日本のあの戦争をまちがったものとし、反省し、アメリカを評価し礼賛した。そこには本当に、あの戦争に参加し、苦しんだ兵士たちをねぎらったり、いたわったりする余地は、どこにもなかった。被害者としても加害者としても、彼らはまったくかえりみられることがなかった。
戦争時の敵への残虐行為を自慢する父に、武田氏も兄も激しく反発する。学校でも社会でもマスメディアでも文学でも映画でも、戦後民主主義とアメリカ文化に染めぬかれた若者たちには、それは当然のことだ。私自身の姿もそこには重なる。
父には、自分の過去を評価も反省もする場が持てない。しかも妻である武田氏の母は、アメリカ軍の家庭で働き、父以上の収入を得、アメリカ人の優しさや魅力に「日本は負けてよかった、負けるのがあたりまえ」と語る。
もう、いろいろと、わかりすぎる。武田氏の要を得た巧みな語り口で、父と母と息子たちのそれぞれの心が、ありありと自然に浮かび上がって来る。それがどれだけ、兵士として戦った男たちの気持ちを、苦しめたか。追いつめたか。手に取るように伝わって来る。
武田氏は「母に捧げるバラード」の曲が大ヒットし、自宅に取材に来る記者もいた。詩の内容もあってか、武田氏の家は母子家庭と思われてしまっていて、記者は「お父さまはどの戦線でお亡くなりになったのですか」と聞き、母は調子に乗って「フィリピンで死にました。見事な最期でした」と答える。奥の部屋に隠れていた父は、後で出て来て母と大喧嘩になる。母は「あんたが死んどった方が、あの歌は盛り上がるったい」と言い放つ。
「もう、喜劇ですよね」と武田氏は語る。実際笑わずにはいられない。そういうとんでもないギャグも含めて、ここに切なく浮かび上がるのは、戦争と敗戦がもたらした普通の家庭、家族の、まったくそうであろうと納得できすぎる悲喜劇だ。
正直言って、この武田氏のインタビューだけでも、一人でも多くの人に読んでもらいたい。純然と、ただもう、面白いということもある。誰もがきっと文句無しに楽しめる。そしてそれは、おのずから、これでもかというほどわかりやすく、戦争トラウマの悲劇と、それに向き合おうとしなかった、戦後の日本社会、私たちの一人ひとりの冷たさとだらしなさを、とても、とても、わかりやすく教えてくれる。
武田鉄矢氏は今では時々、批判されるような昔風の発言もしたりする。しかし、このインタビューを読むと、彼が自分で気づいているところも気づいていないところもあるが、彼が自分と、周囲と、時代とを、しっかりと感じとり、忘れずに、生き続けて来ていることが、よく伝わる。彼ほど巧みな語り口ではないが、この本に登場するすべての人々の、素直で、誠実な述懐は、錯綜し重複しながら、大きな一つの絵巻物のように、戦争によって傷つけられ歪められた一つの時代と国の姿を、ありありと広げて見せてくれている。
そして、この本はさらに兵士たちだけではなく、沖縄や広島や長崎や東京で、空襲や戦闘や原爆で地獄を体験した人々のトラウマ、そして、日本軍が大陸やアジアで行った現地の人や捕虜に対する行為のさまざまが被害者たちに与えたトラウマについても、調査し報告し、その解決を探っている。
これらもまた、一口にはまとめられない、さまざまな要素をふくんでいる。しかし、その中でくりかえし確認されるのは、とっくにもう忘れた、克服したと思っていた悲惨な体験が決して完全に消えてはおらず、何かのはずみに鮮烈によみがえるという実態だ。それが、どれだけ、人々の心に残り、死ぬまで消えずに苦しめるかという確認だ。
戦争は、生き残った者たちも、これほどに破壊し、苦しめ、その周囲も長く傷つけつづける。その実態さえもよく知られないままに、多くの人が苦しみぬいたまま、愛する家族を苦しめながら、孤独の中で死んで行った。
戦争について考えるとき、このことを私たちは忘れてはならないと思う。もっともっと、知らなくてはならないと思う。生きて帰って来た人たちは、平和を築く力さえ残っていないことが多いのだ。そして、そういう人たちがいなくなり新しい世代が生まれて来ているように見えても、戦争トラウマが遺した傷やゆがみは、その世代にさえも、何らかのかたちで残るのだ。
この感想は、一応これで終わる。しかし、このことについては、機会があれば、また考えてみたい。こんな時代だからこそ。こんな世界だからこそ。
