母と六大学野球
「しんぶん赤旗」日曜版の中で、毎回胸をかきむしられる連載は、戦死した画学生の遺した絵画を展示している「無言館」の館主、窪島誠一郎氏の、画学生たちと、その絵にまつわる思い出だ。10月26日の回は、丸尾至という東京帝国大学(今の東大)の学生とその絵の紹介だった。
私自身はこの人を知らない。だが、「硬式野球部に所属していて、神宮球場での六大学野球に何ども出場、堅守と巧打で知られるスター遊撃手でもあった。当時のスポーツ雑誌のグラビアには、華麗な球さばきでファインプレーを連発する丸尾至の姿が、『帝大野球部の要(かなめ)蝶のごとく舞う』といった見出しとともに紹介されている」という窪田氏の紹介の文章が私の目を射る。
あの人が知らないはずがない。一瞬でそう確信する。
あの人というのは私の母である。大正七年生まれで、九十八歳で亡くなった。まだ女性の野球ファンなど皆無だった時代から、六大学野球の熱狂的なファンだった。
当時はプロ野球や高校野球以上に、六大学野球の人気が高かったという。テレビなどない、ラジオと新聞で皆は熱を上げていたらしい。母は縁もゆかりもない慶応大学の大ファンで、早稲田大学のファンだった弟の板坂元(本人は結局東大に行ったのだが)と、応援合戦をくり広げていたそうだ。学校から帰ってくる叔父を、門の前の松の木に登って枝にまたがって出迎えて、「元ちゃん、勝ったよ勝ったよ、慶応勝ったよ」と叫んで教え、くやしがる叔父が木の下から、「〇〇投手はどうだった、打たれたのか、△△選手はどんな調子だったのか」などと聞くのに対して、「ああもう、〇〇はさっぱりだった、△△は問題にも何もならなかった」と言い返したりしていた、と私に話したことがある。
慶応出身のプロ野球選手の誰だったかが、母のいた長崎に来たとき、母は彼の泊まった旅館の裏山に夜中にしのんで行って、草むらの中から、宴会で酔っ払って顔を赤くしているその選手の姿を見たとか言っていたから、今の推しの追っかけをするファンと比べても遜色はない。当然ながら慶応大学の野球部のレギュラー選手の名はすべて覚えていたし、毎試合のスコアブックもきちんとつけていた。私を生んで育てた数年間だけは、スコアブックもつけてないし、選手の名前を記憶してないと言っていたから、一応母親としての自覚と責任はあったわけだ。まあそのくらい私にかまけていてくれたかと思うと、さすがに悪い気はしない。
私がものごころついてからは、昔ほどではなかったろうが、よく選手の名前をあげて、試合の話をしていた。私も一時期のレギュラーの選手の名前は全部知っていたのだが、今では三塁手?だった田浦選手しか覚えていない。
丸尾至は美術や哲学にも関心が深い「文武両道」で、「鏡月」という俳号も持つ俳人でもあったという。版画や油絵にも才能を発揮し、無言館には水彩画「釣り人のいる風景」が収められている。昭和十九年に召集され、戦地から父に、岩波文庫など、とにかく本をたくさん買っておいてほしい、帰ってから読むのを楽しみにしているからという手紙をよこして、昭和二十年に敵機の攻撃を受けて、中国の陸軍病院で死ぬ。享年二十五歳。
私は昭和二十一年生まれ。六大学野球は中止になっていただろうが、丸尾至が活躍していたころは、母はまだ野球に熱を上げる余裕があったはずだ。当然その名も活躍も知っていた可能性が高い。でも、その詳しい人となり、戦死するまでのいきさつ、そしてこの水彩画のことなどは、むろん知るよしもなかったろう。
何をどう言っていいのかわからない。とりあえず、母にこの記事を見せたかったと思う。いっしょに読みたかったと思う。母がなにがしか知っているかもしれない、丸尾選手の活躍や印象について、記憶や思い出があるなら、それも聞かせてほしかったと思う。
母はよく、戦死した野球選手の誰彼の名をあげて、「あの人たちが死んだというだけでも、戦争なんか絶対にもうしてはいけない」と言っていた。あらためて、そのことも思い出している。
写真は、母の持っていた野球選手のフィギュア。私がマグカップに挿して、消しゴムを切ってベースを作りましたけど、位置がちがうよね(笑)。
