敬老の日に毒を吐く
傷めた足の状態はだいぶよくなって来た。まだ万全とは言えないが、ぼちぼち庭仕事をしたりしている。とは言え、今日もやっぱり暑く、昼間は家にこもるしかない。
先月亡くなった猫のカツジの遺品を整理していたが、人にはさしあげられない古いおもちゃとか、ものすごい量の写真とか、けっこういろいろなものがあるので、とりあえずつめこんでおく箱がないか探していた。以前亡くなった愛猫キャラメルのときは、きれいでゴージャスな紙箱があって、いまだに彼の写真などは、それにつめこんであるのだが、そういう箱がどこかにまだありそうなものと思うのだが、見つからない。
いらいらがつのった結果、ついネットで見つけた、よさそうな箱を三つほど注文してしまった。多分無駄にはならないと思うのだけど、知らんぞ自分。
猫の墓の回りにも、庭のあちこちに落ちていた、軽いれんがのかけらを載せたり、白い花を買って来て置いてみたり、ちょこちょこ手を入れて楽しんでいる。でも、ありあわせの植木鉢ばかりなので、小さすぎて花が枯れないか心配。庭の鉢はなるべく減らす方向で行きたいので、新しく買いたくはないしなあ。まあ何か考えてみよう。
毎朝ちょくちょく、こんなことして遊んでいると、そのへんにカツジがうろうろしているような気がして笑ってしまう。まだ身体は完全に土になってはいないだろうが、魂はそろそろ身体を抜け出して、そのへんをうろついているのかもしれない。どうだこれは気に入ったかいと、ときどき声をかけてやる。




先日から、人に聞かれたこともあって、終活や老後の計画について、少しまとめてみた。かねがね考えていたことを書くいいきっかけになったから、聞いてくれた人には感謝しかないが、意外にいろんな人からメールや直接の感想をいただいて反響が大きく、ありがたいが、はっきり言ってうざい。そもそもけっこう若い人が何人も関心を持って、あれこれ言って来るのが言いようもなく気持ちが悪い。
まだちゃんと歩けて目も耳もしっかりしていて、デモにも集会にも行けるし、本も読めるし映画も見られるし、恋も殺人もできるような人が、私のような棺桶に片足突っ込んだ人間の死に支度を気にしてどうするんだ。そんな時間がよくあるよ。このような人たちに、多分私のこれを書いてる心境も実態もわかるはずがないし、珍しいものを見て面白がって、新しい遊び道具を見つけたつもりでいるのなら、あまりに独創性がないし、それだけは保障してやるけど、そんな精神の人間に、ろくな人生も老後も待ってないだろう。それは個人の問題だし、私の知ったこっちゃないが、世の中や世界や未来が、どうなることかと、大きなお世話だろうが暗澹とする。
人のふんどしで自分の人生の相撲をとろうなんて、ずぼらなことを考えるなよ。それも経血や排泄物の染みがあちこちに残っているようなふんどしで。ひとごとながら、恥ずかしくってしょうがない。
と言いながら、まだまだ続きは書くでしょうけどね、終活レポート。はっきり言って私と同様、そろそろ死にかけている人以外には(そういうひとにも)あまり役にはたたないと思います。くり返しますが、くたばりかけのばあさんの言ってることにうつつを抜かすひまがあったら、てめえの頭のハエを追うか、頭の中の蜘蛛の巣を払えと申し上げたいぐらいです。
これ読んで、あわてたり怒ったりしてる人たちへ。安心して下さい、あなたみたいな人、ひとりじゃないですから。いちいち言うのが面倒だから、まとめて感想書いただけです。